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デイヴィッド・ジョナサン・ドリュー(David Jonathan "J. D." Drew, 1975年11月20日 - )は、メジャーリーグの元野球選手(外野手)。アメリカ合衆国ジョージア州バルドスタ出身。右投左打。弟のティム・ドリュー、スティーブン・ドリューも同じくメジャーリーガー。代理人はスコット・ボラス。 == 経歴 == 、サンフランシスコ・ジャイアンツからドラフト20巡目で指名されるが契約せずフロリダ州立大学に進学。にゴールデンスパイク賞を受賞し、大学野球史上初のシーズン30本塁打・30盗塁を記録するなど活躍。 、弟のティムがクリーブランド・インディアンスからドラフト1巡目で指名されており、ドリューもフィラデルフィア・フィリーズからドラフト1巡目(全体2番目)で指名されたことにより史上初の同一年ドラフト1巡目指名の兄弟となったが〔、球団側は契約金200万ドルを含む4年総額600万ドルに対し〔「30球団マンスリー・リポート セントルイス・カージナルス/入団を拒否した因縁の地へ初遠征 球場の憎悪を一身に浴びたドリュー」『月刊メジャー・リーグ』1999年10月号、ベースボールマガジン社、1999年、雑誌 08625-10、82頁。〕、代理人のスコット・ボラスが総額1,100万ドルの契約金を要求し決裂したと言われている〔〔。その後、独立リーグノーザンリーグのセントポール・セインツでプレーすることになった。44試合に出場し、打率.318・18本塁打・50打点を記録し、リーグの最優秀新人賞を受賞〔。 翌にセントルイス・カージナルスからドラフト1巡目(全体5番目)で指名され総額850万ドルの4年契約を結び、契約金はドラフト指名選手として史上最高となる300万ドル〔「30球団マンスリー・リポート セントルイス・カージナルス 噂の新人と4年総額850万ドルで契約ドリュー外野手が投げかける波紋」『月刊メジャー・リーグ』1998年9月号、ベースボールマガジン社、1998年、雑誌 08625-9、80頁。〕。球団関係者は、ロースターの枠が40人に拡大される9月にメジャー昇格を果たす確率が高いと見ており〔、AA級とAAA級で45試合出場し、9月8日のマーク・マグワイアがシーズン62本塁打を放ち、シーズン最多本塁打記録した試合でメジャーデビューをしている〔。 メジャー昇格後初のベテランズ・スタジアムでのフィリーズ戦となった8月10日、球場全体から憎悪の視線がドリューへ向けられた〔。8回にドリューが守備に就いた時にはフィリーズファンが乾電池を投げ込み、試合が10分間中断となり、球審は「これ以上騒ぎが大きくなれば没収試合にするぞ」と警告を促した〔。 オフにアトランタ・ブレーブスにトレードされ、は自己最高の31本塁打・93打点を記録し、6月30日から7月26日にかけてジェフ・ケントの25試合連続安打に次ぐこの年リーグ2番目の長さとなる22試合連続安打を記録し、MVPの投票では6位に入っている。シーズン後の12月にブレーブスの3年総額2500万ドルを上回る金額を提示したロサンゼルス・ドジャースと5年5,500万ドルの契約を結んだ。 オフにドジャースとの間に残っていた3年3,300万ドルの契約を自ら放棄し退団。ボストン・レッドソックスと5年7,000万ドルの契約で合意。故障が多いため契約に「肩の古傷の再発で35日以上の故障者リストに入ったり、新たな故障でプレーできなくなったりした場合は、最後の2年間の契約を破棄できる」という条項がある。また、契約合意直後の身体検査で右肩に異常が見つかったため、正式な契約締結は遅れた〔『月刊スラッガー』2007年3月号、44ページ〕。 6月に初の月間MVPを受賞し、デビッド・オルティーズの離脱の影響を最小限に食い止めた〔「2008年後半戦チーム総点検 ボストンレッドソックス 投打の主力が故障離脱も分厚い選手層でカバー」『スラッガー』2008年9月号、日本スポーツ企画出版社、2008年、雑誌15509-9、37頁〕。初選出となったオールスターゲームでは7回に同点2ランを放つなど4打数2安打2打点の活躍を見せMVPに輝いた。 は、打率.279・24本塁打・68打点という成績を記録。本塁打に関しては、自身の中で3番目に多い本数であり、レッドソックス移籍後では初の20本以上のシーズンとなった。は、2年連続で20本以上の本塁打を放ったが、チャンスでの弱さが目立ち、本塁打22本中16本がソロだった。 、5年契約を満了しFAとなり、引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「J.D.ドリュー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 J. D. Drew 」があります。 スポンサード リンク
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