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J・フランシス・ディロン : ウィキペディア日本語版
ジョン・フランシス・ディロン

ジョン・フランシス・ディロン(, 1884年7月13日 - 1934年4月4日)は、アメリカ合衆国映画監督俳優映画プロデューサー脚本家である〔John Francis Dillon, Internet Movie Database , 2010年5月14日閲覧。〕。J・フランシス・ディロン()、J・F・ディロン()、ジャック・ディロン()、ジョン・ディロン()等ともクレジットされた〔。
== 人物・来歴 ==
1884年7月13日、アメリカ合衆国のニューヨーク州ニューヨーク市で生まれる〔。5歳下の弟は後に長じて脚本家ロバート・A・ディロンとなる〔。
1913年(大正2年)、キーストン・フィルム・カンパニー(キーストン・スタジオ)に入社、短篇映画に出演を始める〔。1914年(大正3年)、カーライル・ブラックウェル主演の短篇映画 ''The Key to Yesterday'' を自らも出演しながら監督して、映画監督としてもデビューする〔が、同社では引き続き俳優業をつづけ、アル・クリスティ監督の短篇に多く出演する〔。1915年(大正4年)、アメリカン・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーに移籍して監督業に重心を置く〔。チャールズ・チャップリン作品の常連俳優ベン・ターピンの主演する短篇コメディを量産する〔。のちにトライアングル・フィルム・コーポレーションに移籍、リリアン・バイロンらを相手に自らの主演する短篇映画を量産する〔。
1918年(大正7年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍〔、同社の子会社・ブルーバード映画エディス・ロバーツを主演に『偽紫』、『密書を抱いて』、プリシラ・ディーンを主演に『第二の結婚』を監督、翌1919年(大正8年)にはブルーバード映画最終作とされる『赤い酒』をエディス・ロバーツを主演に監督〔、いずれも日本でも公開されている〔『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.〕。
1921年(大正10年)5月14日、12歳年少の女優エディス・ホーラーと満36歳で結婚する〔。
俳優業はサイレント映画時代の終了をもってほぼ廃業するが、トーキー以降も監督として、『キスメット』(1930年)や『ミリー』(1931年)等の作品を手がけ〔、1934年(昭和9年)1月6日に米国内で公開された『めりけん商売』を監督したのを最後に、同年4月4日カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ心筋梗塞により死去した〔。満49歳没。ロサンゼルス市ハリウッドにあるハリウッド・フォーエヴァー墓地に眠る〔John Francis Dillon, Find A Grave , 2010年5月14日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョン・フランシス・ディロン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 John Francis Dillon (director) 」があります。



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