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K5計画(ケーファイブけいかく)又はK5地帯、K5作戦、あるいはまたバンブーカーテンとしても知られる計画は〔Kelvin Rowley, ''Second Life, Second Death: The Khmer Rouge After 1978'', Swinburne University of Technology 〕、1985年から1989年にかけてカンプチア人民共和国政府の行った作戦である。この作戦では塹壕やワイヤーフェンスが用いられ、また事実上タイ・カンボジア国境全域に沿って地雷原が敷設され、カンボジアへのクメール・ルージュの潜入を防ごうとした〔Margaret Slocomb, ''The People's Republic of Kampuchea, 1979-1989: The revolution after Pol Pot'' ISBN 9789749575345〕。 破壊的なK5国境防衛は、カンプチア人民共和国の印象に壊滅的な影を落とすことになる。 == 背景 == 1979年に民主カンボジアが敗れると、クメール・ルージュはすぐにカンボジアから撤退した。タイとの強力な外交関係と庇護下において、ポル・ポトの事実上無傷の国民軍30,000名から35,000名が、タイ・カンボジア国境の樹木に覆われて山の多い地域に集結し、組織された。1980年代前半、クメール・ルージュ軍はタイの国境近くの難民キャンプでその強さを示し、豊富な軍備の提供を安定して受けた。武器は主に中国やアメリカ合衆国から提供され、タイ王国軍の協力でタイを通る供給路が確保された〔Puangthong Rungswasdisab, ''Thailand's Response to the Cambodian Genocide'' 〕。 タイ国境沿いには隠れた前哨基地があり、これを安全なものにするという観点から、クメール・ルージュは新設されたカンプチア人民共和国(PRK)に対する徹底した軍事作戦を開始した。クメール・ルージュは優勢であった。彼らは1975年から1979年にかけ、かつて戦った非共産主義武装集団と共にカンプチア人民革命軍(KPRAF)やベトナム人民軍と戦った。 国境での戦争は、雨季/乾季の周期で続いた。一般に重装備のベトナム軍は乾季に攻撃を仕掛け、中国やアメリカ合衆国が後援するクメール・ルージュは、雨期に主導権を握った。1982年、ベトナムはカルダモム山脈プノンマライのクメール・ルージュの主要な基地に対して攻撃を開始したが、これはほとんど成功しなかった。 国境で行われた内戦の主な結果は、大打撃を受けた国家を再建し、権力を強化する試みという点でPRKが阻止されたことであった。クメール・ルージュの影響する地域では絶え間ないゲリラ戦が行われ、しつこい破壊行為を受けた国境地域において、新しい共和国の支配力は弱いものであった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「K5計画」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 K5 Plan 」があります。 スポンサード リンク
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