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NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座(エヌダブリューエーインターナショナル・ジュニアヘビーきゅうおうざ)は、かつてNWA内の反主流派と呼ばれたプロモーター達と新日本プロレスが作り出した王座で、当初は新日本プロレスが管理していたが、その後、全日本プロレスに管理権が移った。 現在は全日本プロレスのフラッグシップタイトルである世界ジュニアヘビー級王座の前身でもある。 == 概要 == === 誕生 - 新日本プロレス時代 === 元々は新日本プロレスの藤波辰巳が、1980年2月にスティーブ・カーンとのダブルタイトルマッチを制して王座を奪取したのをきっかけに、NWA認定インターナショナル世界ジュニアヘビー級選手権(通称:NWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級王座。テレビ中継『ワールドプロレスリング』においては『NWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル選手権』と紹介された)として新日本プロレスに定着したものである〔「別冊ゴング 昭和55年11月号」P42他(1980年、日本スポーツ出版社)〕〔「1945-1985 激動のスポーツ40年史(6)プロレス 秘蔵写真で綴る激動史」P162、P193(1986年、ベースボール・マガジン社)〕〔〕。 当時NWA世界ジュニアヘビー級王座は、オクラホマ州のプロモーターであったレロイ・マクガークに管理が一任されていたため、マクガークの興行テリトリー以外ではタイトルマッチが中々組めない状況であった上、マクガークによる王座の専有が問題とされていた。そのため、新日本プロレスを始めとする一部のプロモーターたち(WWFのビンス・マクマホン、フロリダのエディ・グラハム、ロサンゼルスのマイク・ラベールら当時のNWAにおいて『反主流派』と呼ばれていたプロモーター)が連携し、世界ジュニアヘビー級王座と同等のタイトルを作ろうと画策。1979年、当時の王者であったネルソン・ロイヤルの引退に伴い、反主流派は同年12月10日、ロサンゼルスにてスティーブ・カーンとチャボ・ゲレロの間で世界ジュニアヘビー級王座の決定戦を行い、チャボを下したカーンを新王者に認定するが、これに異を唱えたマクガークも1980年2月11日にオクラホマで王座決定トーナメントを決行し、ロン・スターを新王者に認定したため、一時期、2つの『NWA世界ジュニアヘビー級王座』が混在するなどの事態を招いたが、最終的にはマクガーク版のタイトルの正当性が認められ、反主流派が新設したタイトルはNWA認定インターナショナル世界ジュニアヘビー級王座としてマクガーク版の正統王座に次ぐジュニア王座として認定されることになった。 1980年2月1日、WWFジュニアヘビー級王者だった藤波はカーンとのダブル・タイトル戦を制し、NWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級王座とWWFジュニアヘビー級王座の二冠王者に輝くが、同年7月に負傷(右手小指骨折)のためNWA王座を返上〔。ブレット・ハートとの新王者決定戦に勝利した木村健吾が新王者に就くが、木村は同年10月、チャボ・ゲレロにタイトルを明け渡す。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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