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『巡礼』(じゅんれい、 UNGEGN式: アル・ハッジ)は、アル・クルアーン(コーラン)における第22番目のスーラである。章の前半部、中間部は、警告や吉報、巡礼等に関して。後半部は、主に神の偉大さを讃える。 == 主な内容 == *かの時の地震は激しく、神の懲罰がある〔大地が揺れ、かの時(最後の時、審判の日)が近づいている。〕。 - 1節、2節 *知識なく神を議論し、さらにはシャイターンに従おうとする者がいるが、その者はシャイターンにより炎の懲罰へと導かれる。 - 3節、4節 *もし復活を疑うのならば、人々〔マッカの住民。〕よ、神は、神の完全を明示するために造ったのだ〔アーダム(アダム)と子孫を造った。〕。子宮の中に留めた後、出産させ、やがて死へ召し上げる。ひとたび水を降らせれば、枯れた大地は再び潤う。神は死者を復活させ、全能である。人を神の道から迷わせる者には、現世での屈辱〔バドルの戦いで殺されたことを指す。〕と、復活の日の火の懲罰がある。それは自らの行為の報いであり、神は不正をしない。 - 5節から10節 *疑いを持って神に仕える者は、幸福には安心し、試練からは逃げ、現世も来世も失う。こうした者は、神を差し置いて、害も益もない対象を祈り、害のある対象を祈る。 - 11節、12節、13節 *神は、信仰して善行する者を楽園に入れる。〔ムハンマドを助けようとしない者には、首を吊らせよ。ムハンマドの勝利を妨害できるものなら、妨害して見せよ。〕。それは〔これまでの啓示にあったように、それ(アル・クルアーン)は。〕明白な御しるしであり、神は導きを望む者を導く。 - 14節、15節、16節 *信仰者、戻った者〔ユダヤ教徒。〕、ザービー教徒〔またはザバ人、ザビア人。ユダヤ教の一派とも、キリスト教の一派とも言われ、井筒俊彦は、メソポタミア地帯にいたバプテスマ派のユダヤ的キリスト教徒としている。〕、マギ教徒〔または井筒俊彦によると拝火教徒(ゾロアスター教)。〕たちを、神は、復活の日に楽園と業火に分ける。 - 17節 *神に対して、天地、太陽、月、星、山木、動物、多くの者〔信仰者である。信仰者は額を付けて平伏礼拝をする。〕が、跪拝するのを見なかったか。多くの者〔不信仰者。〕は懲罰がふさわしい。神が卑しめた者には誰も栄誉を与えない。神は望むことをする。 - 18節(サジダ節、平伏礼拝を行う節) *信仰を拒む者には火の服〔火に囲まれる。〕、頭上からは熱湯が注がれ、腹と皮膚は溶ける。鉄の棒もある〔不信仰者を叩く棒。〕。「火の懲罰を味わうがいい」と、出ようとするたびに押し戻される〔不信仰者は業火から出ようとしても鉄の棒で業火に戻される。〕。 - 19節から22節〔19節から22節はバドルの戦いに関する啓示。〕 *神は、善行の信仰者を楽園に入れる。信仰者は言葉〔「神は唯一」という言葉。〕とともに讃えるべき神の道に導かれた。不信仰者には、懲罰がある。 - 23節、24節、25節 *イブラーヒーム(アブラハム)の時代に、神に何者かを並列するなと言った。また、神の館〔館は、カアバ神殿に限定されるわけではない。〕を周礼、立礼、屈礼、跪拝する者のために清めよ、と。 - 26節〔26節から33節の啓示は、巡礼と関連性が特に高い。〕 *人々に巡礼を呼びかけよ。神が与えた家畜に対し、定められた日々〔ヒジュラ暦第12月にあたるズー=ル=ヒッジャ月(:en:Dhu al-Hijjah)の10日間とも、アラファの日(:en:Day of Arafat)とも、イード=ル=アドハー(犠牲祭、犠牲の日 :en:Eid al-Adha)からタシュリーク(日干し :ar:أيام التشريق Ayyam-at-Tashriyq, Ayyamut-Tashriyq アイヤーム・アッ=タシュリーク、アイヤームッタシュリーク)の最終日までとも言われる。〕に、神の名を唱えよ。家畜を食べよ。貧者にも家畜を食べさせ、体を清潔にさせ〔イフラーム(:en:Ihram)の後に毛や爪を整えて体をきれいにする。〕、請願を果たさせたら館を周礼させよ。 - 27節、28節、29節〔 *神のタブーを尊重することは一層よい。家畜は許された〔『食卓 (クルアーン) 』第3節で禁止されたものは除外する。死肉、血、豚肉、神の名を唱えなかったもの、絞殺、打ち殺しによるもの、野獣が食い殺したもの、偶像の前で殺したもの。賭け矢による分配も禁止である。ただし、飢餓のためやむをえない場合は、神は慈悲深く寛容である。〕。偶像を避けよ。虚偽を避けよ。神に何かを並列する者は、あたかも空から落ちているところを鳥にさらわれるようであり、風が遠くに吹き飛ばしたようである。 - 30節、31節〔 *神の儀式を尊重する者の、それ〔神へのラクダの捧げもの。〕は、神への畏怖による。屠殺の場所は、館のほう〔聖地全体。〕である。 - 32節、33節〔 *神が与えた家畜に、唯一の神の名を唱えさせるために儀式がある。神に帰依し、吉報を伝えよ。それは神の名に怖れ畏まり、苦難に耐え、礼拝し、喜捨をする人々に伝えるのである。犠牲〔は、神の名のもと屠り、食べよ。満たされた者にも、物乞いにも、食べさせよ。神に感謝し、賛美するようにと用立てたのだ。捧げた肉や血が神に届くのではない。神への畏怖の心が届くのだ。一神教徒へ吉報を伝えよ。 - 34節から37節 *神は、信仰者から追い払う〔信仰者に降りかかる、多神教徒の災いを追い払う。〕。神は背信者を愛さない。不正を受けたことにより、戦いの許可が下りた〔信仰者が、不信仰者から不正を受け、不信仰者に対する戦いの許可が下りた。それはジハードに関する最初の啓示である。〕。 - 38節、39節 *もし神がある者たちによりある者たちを撃退しなければ〔信仰者を使って、不信仰者を撃退する。神が信仰者に戦闘の許可をしたことを意味する。〕、修道院、教会、礼拝所、跪拝所〔教会はキリスト教徒の教会、礼拝所(サラワート)はユダヤ教徒のシナゴーグ、跪拝所(マスジド)はイスラム教徒のモスク。〕は、壊されていた。それらの者に力を与えると、礼拝、喜捨、善行をする。 - 40節、41節 *嘘だと否定されても、以前にもヌーフ(ノア)の民、アード、サムード〔サムード(:en:Thamud)は、サーリフ (預言者) (:en:Saleh)の民のこと。〕に、否定されている〔ここには預言者への慰めがある。それらの民は、かつて預言者を嘘と否定してきた。〕。イブラーヒーム(アブラハム)の民も、ルート(ロト)の民も、マドヤン(ミデヤン)の民〔預言者シュアイブ(:en:Shoaib)の民。〕も、ムーサー(モーセ)〔モーセのことは、イスラーイール(イスライール)は否定しなかったが、コプト人が否定した。〕も、否定された。それで不信仰者に猶予を与えてから捕らえ、どれほど拒絶し、どれほどの町を滅ぼしたことか。 - 42節から45節 *地上を旅すれば、それを考え聞く耳が持てたであろうに〔不信仰者は、地上を旅することで、嘘だと否定した者に降りかかった破滅を考え、聞くことができたであろうに。〕。まことに心の盲目である。あの者たちはおまえに懲罰を急かす〔クライシュ族は、預言者に対して、神の懲罰があるのなら早くそれを見せてみろ、とばかりに嘲笑して急かした。〕。神のもとでの一日は、おまえたちにとっての千年のようなもの〔懲罰のせいで、そうなる。〕。どれほどの不正なる町を猶予してきたか。それを捕らえ、行き先は神のもと。 - 46節、47節、48節 *私は警告者である、と言うがいい〔マッカの住民に対して、警告を伝える。また吉報の伝達者でもある。〕。信仰する善行者には赦しと賜物がある。が、しるし〔アル・クルアーン。〕を妨害する者には業火である。 - 49節、50節、51節 *以前も、使徒や預言者を派遣した時、シャイターンが吹き込んだ〔シャイターンが、預言者の口に、誘惑の言葉を吹き込み、預言者がその言葉を発した。ムハンマドの場合、『星 (クルアーン) 』第19節、20節の後、シャイターンに誘惑の言葉を吹き込まれ、シャイターンのその言葉を発している。その後、大天使ガブリエルがその事態に関してムハンマドに告げている。〕。が、全知全能の神はシャイターンのそれを棄却し、しるしを確定した。それは、シャイターンの吹き込む言葉で、不信心者を試したのである。それはまた、知識を与えられた者たちが、神の真理を知り、畏まるためである〔唯一信仰とアル・クルアーンを与えられた者たちが、神の真理に謙虚に信仰するようにするため。〕。 - 52節、53節、54節 *不信仰者には、かの時〔死、または復活の時。〕が来るか、懲罰の日〔バドルの戦いの日、または復活の日。〕が来る。その日〔復活の日。〕、神が裁き、信仰の善行者は楽園に。一方、不信仰者、しるしを嘘と否定した者には、屈辱の懲罰。 - 55節、56節、57節 *神の道のため移住〔マッカからマディーナへのヒジュラ(移住)。〕し、殺されまたは死んだ者には、最良の者を授与する神による賜物がある。神は必ずその者たちの満足する場所に入れる。神は全知で寛容。被った仕打ちへの報復にも拘わらず、さらに不当な仕打ちを被るならば、神が助ける。神はよく赦し寛容。それは〔その勝利は。〕、神が夜を昼に、昼を夜に入れたからである。神は全て聞き、全て見る。それは〔、神が真理であり、神を差し置いて祈る物が虚偽であるからだ。神は至高で偉大。 - 58節から62節 *神が空から水を降らせ、大地が緑化するのを見なかったか。神は親切で何でも知っている。天のもの地のもの全て神に属す。神は満ちており、讃えるべきである。神が海に船を走らせたのを見なかったか。神は地上に落下してしまう空を掴む。神は優しく慈悲深い。 - 63節、64節、65節 *神がおまえたちを生かし、死なせ、復活させる。人間は恩知らずだ。共同体ごとに儀式がある。この件〔犠牲の捧げものの件。屠殺よりも、神が殺した死肉のほうがふさわしいと言う相手と論争をしてはいけない。〕で論争してはならない。神に呼びかけよ。お前は導きにいる。論争になるならば言うがいい、最もよく知るのは神であり復活の日に神が裁く、と。神が天地のものを知るということを知らないのか。それは書〔天にある書。アル=ラウフ・アル=マフフーズ(護持された書板)。〕に記録がある。神にはたやすいこと。神を差し置いて、神が権威付けていない物を意味もわからず崇拝するような不正な者には、誰も援助しない。 - 66節から71節 *しるし〔が読み聞かせられると、不信仰者が嫌悪するのがわかるであろう。しるしの読み手を襲わんばかりである。言うがいい、もっと悪いことを教えてやる、業火だ、神が不信仰者に約束した、何と悪い行き先か、と。人々よ〔マッカの住民。〕、ある譬え(たとえ)がある。聞け。神を差し置いて祈る対象たちは、束になってもハエすら造れない。ハエに何かを奪われても〔「何か」は対象物の上にある香水やサフラン。サフランを塗った偶像の頭に蜜を塗り、扉を閉じたが、ハエが入って食べてしまう。〕、取り戻すこともできない。祈るほうも祈られるほうも弱いものよ〔神以外の対象を祈る者と、その祈りの対象物。〕。彼らは神の力をわかっていない〔74節の啓示からであるが、74節の啓示理由には諸説ある。預言者が、ユダヤ教の学者に「太った学者」と言い、学者は「神は人間には何も啓示しなかった」とした説(『雌牛 (クルアーン) 』第245節も参照)。ユダヤ教徒が「神は貧しく、我々は金持ちである。神は我々からの貸付を望んでいる」と言ったという説。『食卓 (クルアーン) 』第64節の、ユダヤ教徒が「神の手は縛られた」と言ったことに対してとする説。天地創造で7日目に神が休んだとユダヤ教徒が言ったことへの預言者の怒りによるとする説。〕。神は強く、威力あるのだ。 - 72節、73節、74節 *神は天使たちと、人間たちから使徒を選んだ。神は全て聞き、全て見る。神は前のものも後ろのものも知っている。万事は神に帰す。 - 75節、76節 *信仰者たちは礼拝し、神に仕えよ。善を成せば、成功する〔楽園での永住が与えられる。〕。 - 77節(サジダ節、平伏礼拝を行う節) *神にために努力せよ。おまえたちは選ばれた。おまえたちのアブラハムの宗教に苦行はさせなかった。おまえたちは今も今までもムスリムである。使徒は証人である。おまえたちは人々への証人である。礼拝、喜捨をし、神にすがるのだ。神こそが、よき守護とよき援助である。 - 78節 -- ''『タフスィール・アル=ジャラーライン (ジャラーラインのクルアーン注釈) 第2巻』〔中田香織訳、中田考監訳 『タフスィール・アル=ジャラーライン (ジャラーラインのクルアーン注釈) 第2巻』 日本サウディアラビア協会 2004年9月 - Tafsir al-Jalalayn(英語)も参照。〕等の参考文献による。'' 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「巡礼 (クルアーン)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Al-Hajj 」があります。 スポンサード リンク
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