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WWA世界ブラスナックル王座(ダブリューダブリューエーせかいブラスナックルおうざ)は、かつてWWAが認定し、日本のプロレス団体・FMWが管理していた王座である。FMWにおいての初のシングル王座であり、団体初期の遺恨決着に絡むことで「FMWの至宝」と呼ばれるまでにステイタスを上げた。 なお、認定団体の「WWA」は、同名の団体が複数存在するが、この王座に関しては、後にFMWと密接な関係を築くメキシコのバハ・カリフォルニア州ティフアナを本拠とした「ワールド・レスリング・アソシエーション」ではなく、アメリカ合衆国のインディアナ州インディアナポリスを本拠としたディック・ザ・ブルーザー〔1991年、レオン・スピンクスをブッキングするため、大仁田がアメリカを訪れた際、スピンクスとの仲介に一役買ったブルーザーとも対面。大仁田は、ブルーザー、スピンクスとのスリーショットを実現させている。ブルーザーが鬼籍に入ったのは、それから間もなくのことだった。〕主宰の「ワールド・レスリング・アソシエーション」に拠る認定とされる〔「プロレス全書」 東京スポーツ新聞社、1995年、452ページ〕。 == 来歴 == 1990年1月7日、FMWは後楽園ホールで「総合格闘技オープントーナメント」を開催。その2回戦で、団体エース格の大仁田は、当時WWAブラスナックル選手権者だったビースト・ザ・バーバリアンと対戦。しかし場外乱闘の末に無効試合の裁定が下り、トーナメントは両者失格となった。これに納得のいかない大仁田は、号泣しながら「もう1回!」とバーバリアンとの再戦を観衆にアピールし、さらに立会人のレッド・バスチェンに対し、その再戦にWWAブラスナックル王座をかけるよう要求した。この結果、トーナメントの番外戦として即その場で、バーバリアンと大仁田によるWWAブラスナックル選手権試合が行われることになった。これに大仁田はサンダー・ファイヤー・パワーボムで勝利し、FMWに初のシングル王座をもたらした。 同年2月19日、大仁田はアメリカ・テキサス州フォートワースに遠征し、ボツワナ・ビーストを相手に防衛戦を行い勝利。この時大仁田は、顔面に隈取風のペイントを施して試合に臨み、これが後の「グレート・ニタ」の発端になったとされる。 その後、盟友のターザン後藤との衝突が生じた大仁田は、不本意ながら身内同士の争いを避けられなくなり、同年8月4日に大仁田と後藤は、東京・レールシティ汐留にて、大仁田が“究極のデスマッチ”として提案した「ノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチ」による王座防衛戦及び遺恨決着戦を行う〔その前の1990年6月24日、「身内同士のゴタゴタを見せるのは馬場さんが一番嫌う」との大仁田の意向から、東京・夢の島総合体育館で、二人はノーピープルマッチを行うが、両者KOで決着はつかなかった。〕。この試合で、FMWはブレイクのきっかけを掴むと同時に、1990年のプロレス大賞にて年間最高試合賞を受賞する。 さらに、後藤と入れ替わるかのように因縁が生じたミスター・ポーゴとは、同年11月5日に東京・駒沢オリンピック公園総合運動場体育館で行ったFMW創立1周年記念興行〔当初、FMW創立1周年記念興行は、両国国技館での開催が予定されていたが、管理者側の「FMWは過激すぎる」とのクレームから、会場の変更を余儀なくされた。〕で、テキサスデスマッチルールで防衛戦を行い、こちらもKOで勝利する。なお、これと同じ日に、ソビエト連邦のプロ格闘技組織「DILA」所属の柔道家である、グリゴリー・ベリチェフがFMWに初参戦している。 やがて短期間のうちに頭角を現したベリチェフは、ベルトをかけての大仁田との対戦を要求。これを伝え聞いた大仁田は「ねえ、やってやろうじゃないの。ブラスナックル選手権をブラスナックル・マーシャルアーツ選手権に改称してもいいじゃない!」と快諾。 翌1991年2月、FMWは、WWA・DILAとの共同によるタイトル管理組織「WFDA(WWA・FMW・DILAアソシエーション)」を発足させ、同2月27日、大仁田とベリチェフによる一騎打ちが、WFDAが新たに認定する世界マーシャルアーツ選手権の初代王座決定戦として行われた。その試合前のセレモニーにおいて大仁田は、WWAブラスナックル王座のベルトを返上。世界マーシャルアーツ王座がその事実上の後継となることが示された。 これ以降、WWAブラスナックル王座は封印状態となったが、その後1993年に入り、「世界ブラスナックル王座」というリニューアルされた形で、再度日の目を見ることとなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「WWA世界ブラスナックル王座」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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