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WWA極東ヘビー級王座(ダブリュー・ダブリュー・エーきょくとうヘビーきゅうおうざ)は、韓国プロレスリング連盟が管理するプロレスの王座。 == 概要 == === 大木金太郎の時代 === 1963年に力道山が急死した後、大木金太郎が力道山の正当な後継者であることを主張した。そこでインターナショナル・ヘビー級王座を望んだ大木に対して、日本プロレス首脳はこれを拒否。かわりに日本プロレスは、1965年、大木を極東ヘビー級王座に認定することとし、8月11日の韓国・ソウル大会にて王座決定戦を開催し、大木が芳の里を破って初代王者に就いた〔『Gスピリッツ Vol.28』P70(2013年、辰巳出版、ISBN 4777811743)〕。 大木は韓国と日本で、カール・カールソン、リッパー・コリンズ、ジョー・スカルパ、キラー・カール・コックス、ターザン・ゾロなどを相手に防衛戦を数度行うが、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級選手権に比べて観客動員の低調ぶりは明らかであった。極東ヘビー級王座に価値が無いことを察した大木は同王座を見限り、1966年12月に返上、その後も新王者決定戦などは開かれずに事実上封印された。 一方、当時の日本プロレス社長の豊登は、日本プロレス協会の会長だった児玉誉士夫らの圧力もあり、大木がNWA世界ヘビー級王座やそれに準じる王座を獲得した場合、大木に2代目力道山を襲名させることを約束する〔『Gスピリッツ Vol.27』P85-86(2013年、辰巳出版、ISBN 4777811476)〕。大木は1967年4月29日、ソウルにてマーク・ルーインを破り、当時NWA、AWA、WWWFと並んで世界四大タイトルのひとつと言われていたWWA世界ヘビー級王座を獲得する。 しかし、力道山襲名を約束した豊登は当時すでに日本プロレスを退社しており、児玉誉士夫らも警察の暴力団壊滅作戦により日本プロレスから身を引いていた〔。また、当時の日本プロレスではジャイアント馬場と並んでアントニオ猪木もスター選手として台頭していた時期であり、さらに大木は帰国前にWWA世界ヘビー級王座から陥落していたこともあって、馬場や猪木に人気面で劣る大木の力道山襲名は、前社長(豊登)の独断によるものとして反故にされた〔。しかしこの一件で、WWAと大木に接点が生まれた。なお、大木は1960年代から大韓プロレス協会(のちの韓国プロレスリング連盟)を主宰しており、WWA世界王者マーク・ルーインの渡韓も大木のブッキングで実現した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「WWA極東ヘビー級王座」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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