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W★INGプロモーション(ウイング・プロモーション)は、日本のプロレス団体。同団体の前身である世界格闘技連合W★ING(せかいかくとうぎれんごうウイング)及び分派、旗揚げ予定だった世界格闘技連合(せかいかくとうぎれんごう)についてもこの項で述べる。 == 概要 == === 世界格闘技連合W★INGの旗揚げと分裂 === FMW設立当初の社長だった大迫和義、外国人レスラーのブッキングを担当していた茨城清志、広報スタッフ兼リングアナウンサーだった大宝拓治、メインレフェリーを務めていた川並政嗣、茨城と共に外国人レスラーのブッキングを担当し、プエルトリコ軍団を率いていたマネージャーのビクター・キニョネス、ヒールの中心として大仁田厚と抗争を繰り広げていたミスター・ポーゴらが、大仁田との確執からFMWを離脱し、設立する。 当初は世界格闘技連合W★INGと称し1991年8月7日に東京・後楽園ホール大会で旗揚げ興行を行った。この団体では、かつてFMWに参戦経験のある柔道の徳田光輝、空手・誠心会館の齋藤彰俊、サブミッション・マーシャルアーツの木村浩一郎の若手3名を「格闘三兄弟」と命名、この3人を軸とした格闘技路線に加えて、茨城とビクター・キニョネスによりブッキングされた外国人選手などによるデスマッチ路線が絡む構図とした。 しかし旗揚げ早々に観客動員は伸び悩んだ。経営不振に加えて、格闘技主体の団体を目指す大迫・川並と、プロレス主体の団体を目指す茨城・大宝との間に路線対立が生じ、同年11月には大迫は世界格闘技連合を、茨城、大宝らはW★INGプロモーションをそれぞれ設立する。大迫らの動きに先んじて、茨城は同年12月10日に行う予定だった後楽園ホール大会を「W★INGの事実上の再旗揚げ戦」として企画し、メキシコからミル・マスカラスの招聘を計画した。旧W★ING選手会は大迫派、茨城派いずれかの団体へ参戦するか二者択一を迫られたが、最終的には徳田、金村ゆきひろら大半の選手が茨城派のW★INGプロモーション興行に参加することとなった。大迫派WMAは、参加を予定していた齋藤彰俊が新日本プロレスへ、木村浩一郎がリングスへそれぞれ転戦。協力を約束していたとされるキニョネス、ポーゴらも茨城派へ寝返る形となり、結局、保坂秀樹と鶴巻伸洋の2名しか残留しなかった。WMAは1戦も行わず解散となり、大迫と川並はWMA崩壊を機にプロレス界から身を引いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「W★INGプロモーション」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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