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『からっ風野郎』(からっかぜやろう)は、1960年(昭和35年)3月に公開された日本映画。製作は大映東京撮影所、配給は大映。主演は三島由紀夫。監督は増村保造。脚本は菊島隆三。公開当時は、映画倫理管理委員会より成人映画(映倫番号11898)の指定を受けた〔からっ風野郎 - 日本映画情報システム 2012年7月30日閲覧。〕。 2007年に角川エンタテインメントよりDVDが発売されている。 == 概要 == 当時、既に世界的に高名な作家となっていた三島由紀夫の主演作。やくざの跡取ながら、どこか弱さや優しさを持ったしがない男を演じている。激しく愛を生きるヒロインは若尾文子。 企画の発端は、講談社の編集者・榎本昌治が、親交のあった大映企画部の藤井浩明に、「三島由紀夫で映画を創る」話を持ちかけたことに始まる〔三島由紀夫で撮った『からっ風野郎』はもともと石原裕次郎の映画だったんです SlowTrain 2010年7月19日閲覧〕。三島とも親交があった藤井は、社長の永田雅一の快諾を得、藤井の下、増村保造と白坂依志夫(脚本家)の3人で企画が進められた〔。三島からの注文は、ストーリーは任せる、インテリの役は絶対にやらない、ヤクザとか競馬の騎手とかの役をやりたい、というものであった〔。そこで3人は「八百長レースに巻き込まれる競馬の騎手」の話を企画するが、馬主協会の会長である永田の怒りを買い、却下された〔。 藤井はその時、菊島隆三が書いてお蔵入りになっていた脚本を思い出す〔。本来は、石原裕次郎を想定して書かれた脚本(アテ書き)だったが、ストーリーの結末が石原のイメージを崩すとの理由で陽の目を観ることはなかった〔。藤井は三島主演での映画化を菊島に願い入れ脚本を譲り受け、増村が三島に合わせて改訂し演出がなされた〔。三島の相手役には、山本富士子と若尾文子の2人から、三島自身が若尾を指名した〔。 増村の三島に対する演出は厳しかったものの、三島は俳優に徹し監督の命令に従ったという〔台本提出の前日夜に“停電事件”が…でも増村さんは朝まで書き続けました SlowTrain 2010年7月19日閲覧〕。ラストシーンの撮影では、三島がエスカレーターから転落、頭を打ち切り傷を負い入院したが、その後の撮り直しの際には、永田が監視役で立ち会った〔。撮影終了後は、三島の父や杉村春子から三島と増村に対する評価もあり、2人は親しくしていたという〔。 映画が完成し三島邸に招待された際、増村は三島の父・梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われたという。三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道、増村は、「明治生まれの男は偉い」と、梓をほめていたという〔藤井浩明「座談会 映画製作の現場から」(『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』)(鼎書房、2006年)〕。 なお、1960年(昭和35年)3月20日にレコード発売された主題歌『からっ風野郎』(作詞・歌:三島由紀夫。作曲・ギター演奏:深沢七郎)〔CDは『決定版 三島由紀夫全集第41巻・音声(CD)』(新潮社、2004年)に収む。〕のB面は春日八郎『東京モナリザ』となっている。主題歌は、映画では使用されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「からっ風野郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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