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かんべ むさし(1948年1月16日 - )は、兵庫県出身の小説家、SF作家、エッセイスト。本名は、阪上順(さかがみ じゅん)。 == 経歴 == 興亜火災海上保険に勤務した父親の赴任先石川県金沢市生まれ〔『私の父、私の母PartⅡ』中央公論社、1996年、63-頁〕。小学校入学と同時に新潟県新潟市に転居、小学校5年の時、大阪府豊中市へ転居した〔。父親の本籍地が兵庫県西宮市〔。かつてはプロフィールには石川県生まれ、金沢生まれと記していたが、現在は兵庫県出身で統一。本人としては金沢の記憶が薄い(むしろ新潟育ちの意識がある)こともあり、こうした記述になった。 関西学院大学社会学部卒業。大学時代から広告マンにあこがれており、広告代理店に入社。途中で別の代理店に転職しており、二つの会社でそれぞれ嫌い抜いていた上司は、その後くりかえし作品に登場する二大キャラクターのモデルとなっている。 二社目に勤務中の1974年に、『決戦・日本シリーズ』を『SFマガジン』のSF三大コンテスト小説部門(のちのハヤカワ・SFコンテスト)に応募。選外佳作に選ばれ、同誌に掲載されたことより、作家へと歩み始める。かんべは、SF的発想は持っていたが、SFについての知識があまりなかったので、勉強のために筒井康隆主催のSF同人誌『ネオ・ヌル』に参加。その後、1年ほど会社勤めの傍ら執筆を続けたが、1975年末より作家専業となる。 1977年、『サイコロ特攻隊』で第8回星雲賞受賞。1986年、登場人物たちが、笑いについての分析に終始する、異色長編『笑い宇宙の旅芸人』で第7回日本SF大賞受賞。 なお、広告代理店に入社して、作家となり、そして作家としても新たな道を探る過程は、自伝的作品『第二次脱出計画』に描かれている。 また、かんべは、作品の発想作法として、広告代理店時代に身につけた方法が、おおいに役立っているとも、書いている。 同じ関西在住の先輩作家である、小松左京、筒井康隆から目をかけられ、小松からは米朝一門に、筒井からは山下洋輔トリオに紹介され、それぞれ交流が始まった。また、関西出身の同世代のSF作家であるが、科学をテーマとしたハードSFを主力とするなど方向性が全く異なる堀晃との交友も知られ、いくつかの共著もある。 上方噺家との交友も深く、長編『泡噺とことん笑都』に出てくる「桂朝之助」は2代目桂歌之助がモデルである。 『課長の厄年』は、TBSにて『課長サンの厄年』というタイトルでドラマ化されたが、ドラマは原作のモチーフを借りただけであり、内容はまったく異なるものであった(原作は、「厄年の危機」に対処する方法を、主人公が自身での内面で、延々とブレインストーミングするという、異色の内容であった。ドラマは普通のサラリーマン物ドラマである)。 また、短編『車掌の本分』は、中学生向け国語の教科書に収録されていた。 次女、三女は双子であり、夫人とともに体験したその子育ての過程を「婦人公論」に連載し、『フタゴサウルスの襲来』として刊行している。 2005年4月より2008年6月まで、『むさし・ふみ子の朝はミラクル!』(ラジオ大阪・平日6:15 - 8:52)メーンパーソナリティーを務めていた。 2006年9月20日、日経関西版サイトのコラムにておたくを「顔や人相が異様」と批判し、ネットで物議をかもした。 かつて「クイズの甲子園」というネタを思いついたが、あまりにもくだらないのでボツにした。すると後日、日本テレビ系にて『全国高等学校クイズ選手権』(高校生クイズ)が放送され、それに驚いた旨、エッセイに書いていた。 日本SF作家クラブ会員だったが、2013年、他のベテラン作家らとともに、名誉会員に〔『日本SF短篇50(1)』早川書房〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「かんべむさし」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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