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『くもとちゅうりっぷ』は、1943年4月15日に松竹動画研究所によって製作・公開された日本の白黒アニメーション映画である。原作は横山美智子の童話集『よい子強い子』(1939年、文昭社)の中の一編。 == 概要 == 1943年に松竹動画研究所(当時)によって制作されて公開された白黒アニメーション作品。太平洋戦争中(大東亜戦争)に日本で制作された貴重な国産アニメである。紅系で公開された2巻の16分作品。 松竹の初のアニメーション作品ということで多大な予算をかけ、大学初任給が60円だった当時に倍以上の150円の給料で10名のスタッフを雇い、1942年から制作を開始した。16分の作品に2万枚の動画枚数をかけ、プレスコ方式が用いられている〔「テントウムシの作画を担当した熊川正雄さんが語る制作状況」『アニメージュ』徳間書店、1984年1月号〕。てんとう虫の声は童謡歌手の杉山美子、クモの声はオペラ歌手の村尾護郎があてて〔三木宮彦「細部の精妙さと詩情、これに勝る作品はない くもとちゅうりっぷ」『世界と日本のアニメーションベスト150』ふゅーじょんぷろだくと編、ふゅーじょんぷろだくと、2003年、26頁。〕、歌いながら進行するミュージカルアニメである。 当時日本で一般的であった切り絵アニメーションではなく、このアニメではすべてセル画を利用して作られている。 しかし、まだ当時はセルは貴重品であったため、「セル洗い」を繰り返し、セルを使いまわしていた。色の諧調を綺麗に出すために、白黒作品ではあるが、セル画に彩色が施されている。〔くもとちゅうりっぷ「セル画」url= 漫画家の松本零士は、本作を幼少期に兵庫県明石市で見て、アニメ制作を志したという〔永島孝嗣、平尾小径「松本零士にきく」『二十歳のころ』新潮社、1998年、529頁。〕。同じ明石市の劇場では偶然、後に漫画家になる手塚治虫も本作を見ていたという〔手塚治虫『ぼくはマンガ家 手塚治虫自伝・1』大和書房、1979年、28頁。〕。後の漫画家のうしおそうじは、滋賀県八日市市で添え物として上映されているのを偶然見て、戦時下にこのような叙情的な作品が作られたことに涙を流したと記した〔うしおそうじ『手塚治虫とボク』草思社、2007年、223-224頁。〕。なお原作は1ページ半のそっけないもので、アニメの叙情性は原作者よりも政岡憲三によるところが大きい。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「くもとちゅうりっぷ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kumo to Tulip 」があります。 スポンサード リンク
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