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大王(おおきみ)とは、飛鳥時代以前の大和王権(倭国)の首長を指す歴史用語。主人や貴人を表す”キミ”に偉大さや特別に尊いことを表す接頭語”オオ/オホ”を当てて”オオキミ/オホキミ”とする。用例として「大王」と記す例が最も多く、大和王権の天皇や皇族の敬称と解する〔万葉集では「大王」の表記が57例見られる。「王」を単一で”キミ”と訓む例はない。”キミ”に権威を背景とする君主を意味する「君」の字を当てた「大君」は万葉集には柿本人麻呂が詠んだ「やすみしし我が大君…」など数例が見えるのみである。 橋本達雄は、記紀歌謡・万葉歌双方に見られるの表現を考察して、枕詞の「やすみしし」は全世界を統治する意で、天皇の称号と同様に道教の教理に基づいて案出されたものと説いている。〕。5世紀後半までに大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が成立し、この称号が飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで日本国内で用いられた。なお、初期においては統一王権の王とするかどうかで学説が分かれる。 == 中国文献に見える日本の王の称号 == 本来、「王」とは中国において「中原の主」を指したものである。周代には天下を統治する唯一の天子として王の称号があったが、戦国時代に入りしばらくすると、周王の臣下である諸侯が「王」を自称し、王が乱立した。その後、中華世界を初めて統一した(紀元前221年)秦王嬴政(始皇帝)は、価値を落とした「王」に代わり「皇帝」を使用した。その後、漢が成立する(紀元前221年)と、王号は皇帝の臣下へ与えられる称号(諸侯王)、あるいは従属する周辺国家の長に贈る称号として定着した。 日本に関連する王号の初出は、漢の光武帝が57年に奴国の王に賜綬した金印に彫られている「漢委奴国王」である。 次いで、『後漢書』安帝紀の永初元年(107年)の記事に初めて「倭国王」の語が見える。安帝紀に「倭国王帥升等」とあるように、倭国王を地域の小国家ではなく地域国家連合の首長としての「倭国の王」と考えると、これは倭国の成立を示すものである。 それから、やや下った時代の卑弥呼(死去は240年 - 249年)も、魏によって倭国(都は邪馬台国)の統一女王と認知される。この卑弥呼の政権は、最初期の大和王権とする学説がある(異論もある)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「治天下大王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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