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そこは青い空だった
「そこは青い空だった」(そこはあおいそらだった)は、1964年4月に発売された橋幸夫と吉永小百合デュエットによるシングル (SV-36) 。同年8月には、「そこは青い空だった 橋幸夫・吉永小百合夢のコンビ2」としてミュージックブックが発売された。 == 概要 == 1962年9月20日に発売された橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲「いつでも夢を」 (VS-807) は大ヒットとなり、第4回日本レコード大賞を受賞した(現在までの売り上げ累計は250万枚)。夢のコンビと称された後、「若い東京の屋根の下」(VS-991、1963年4月20日)「若い歌声」(JES-5099、1963年11月5日)がデュエット曲として制作発売され、本作がデュエット第4作となる〔橋幸夫・小野善太郎 『橋幸夫歌謡魂』ISBN 4-948735-16-7 ワイズ出版(東京)1993年6月 48頁〕。 歌詞のなかの「夢のジェット機727」とは、全日空が初めて導入したジェット機ボーイング727のことである。作詞の佐伯孝夫はジャーナリスト出身で、社会の出来事を巧みに取り入れ、フランク永井の代表曲「有楽町で逢いましょう」(1957年11月)では、そごう(本社:大阪府大阪市)の東京(有楽町)進出に合わせた作品づくりをしている〔金子勇『吉田正 誰よりも君を愛す』ISBN 978-4-623-05623-1 ミネルヴァ書房(京都) 2010年1月 186-189頁〕。本楽曲が制作された時期は、東京オリンピック開催に合わせて社会基盤や高速交通網の整備が進められていた時期であり、東海道新幹線の建設が進められ、前年7月15日には日本初の高速道路として名神高速道路の栗東IC - 尼崎ICが開通している〔『近代日本総合年表(第4版)』 ISBN 4-00-022512-X 岩波書店(東京) 2001年11月 442頁〕。運輸省が空の近代化にも取り組み、国内線のジェット化に当たってボーイング727を選択したことを受け、全日空はいち早く同機を導入し、羽田 - 札幌線に就航させた〔『日本の旅客機LEGEND』 (イカロス・ムック) ISBN 978-4-86320-939-8 イカロス出版(東京) 2014年12月 143頁〕。本楽曲は、これらを背景として制作されている。 B面には吉永単独の「空色のワルツ」が収録されている。AB両面ともデュエット曲が収録されているのは、橋・吉永デュエットの最終作となる第6作のA面「夢みる港」B面「あの娘はまちへ」のみである。本楽曲のヒットを受け、4か月後にはミュージックブック「そこは青い空だった 橋幸夫・吉永小百合夢のコンビ2」が制作され、発売された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「そこは青い空だった」の詳細全文を読む
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