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剣 幸(つるぎ みゆき、1954年3月2日 〔『日本タレント名鑑』 VIPタイムズ社、2012年、632頁。〕- )は、日本の女優で元宝塚歌劇団月組男役トップスターである〔『演劇ぶっく』 えんぶ、2013年8月号、65頁。〕。 本名、赤田明美〔剣幸 『メリーゴーランドのように(Soiree books)』 東宝映像事業部、1992年、66頁。〕。富山県富山市出身〔『北日本新聞』2014年3月21日。〕。富山県立富山工業高等学校卒業〔剣幸 『メリーゴーランドのように(Soiree books)』 東宝映像事業部、1992年、著者紹介頁。〕。公称身長162センチ〔、血液型O型〔『テレビ・タレント人名事典』 日外アソシエーツ、2001年、697頁。〕。愛称「ウタコ」〔剣幸 『メリーゴーランドのように(Soiree books)』 東宝映像事業部、1992年、103頁。〕。オフィス・エイツー所属〔。 趣味は「ものを作ること全般」、特にジグソーパズル、編み物、料理〔剣幸 『メリーゴーランドのように(Soiree books)』 東宝映像事業部、1992年、86頁。〕。 == 略歴 == 高校卒業を待ち宝塚音楽学校受験・合格、1974年宝塚歌劇団に入団。60期生。『虞美人』で初舞台〔『歌劇』 宝塚歌劇団、1990年12月号、60頁。〕。 インテリアや建築を学びたくて工業高等学校に進学したが、実際には机に向かって製図を描く毎日で、自分には合わず体を動かす仕事をしたいと思うようになった。以前からNHK『歌のグランド・ショー』に宝塚スターが毎週出演しているのを見ていて、きらびやかな世界に憧れを持ち宝塚音楽学校の受験を決めた〔剣幸 『メリーゴーランドのように(Soiree books)』 東宝映像事業部、1992年、50-52頁。〕。 受験科目のバレエは近くの教室に半年通い、声楽は音楽の授業がなかったため、何も練習せず受験に臨んだ。声楽は、あまりにひどく審査員が椅子から転げ落ち、面接では他の受験生がバレエ、モダンダンス、スパニッシュダンス等を披露するなか側転しか出来なかった。当然、落ちたと思い合格発表を見に行かなかったが、母が念のため確認に行くと受験番号があり慌てて駆け付けたものの入学説明会に遅刻してしまった。最後列の空席についたが、後に成績順だと分かり後ろから4番目であった〔剣幸 『メリーゴーランドのように(Soiree books)』 東宝映像事業部、1992年、53-62頁。〕。 入学後は自分なりに頑張り、13番で卒業できた〔剣幸 『メリーゴーランドのように(Soiree books)』 東宝映像事業部、1992年、70頁。〕。 芸名は出身地の富山県を代表する山のひとつである剱岳に由来〔退団記念ビデオ『剣幸/愛と夢をありがとう』 宝塚音楽出版、1990年。〕。「剱岳のような険しい頂を目指してほしい」と富山工業高等学校の恩師から芸名をもらった〔『読売新聞北陸支社(富山地域面)』2013年10月11日。〕。同期に元女優の遥くらら(元星組・雪組娘役トップ)〔剣幸 『メリーゴーランドのように(Soiree books)』 東宝映像事業部、1992年、69頁。〕、大浦みずき(元花組男役トップ)、磯野千尋(元花組組長)がいる〔『宝塚グラフ』 宝塚歌劇団、1990年12月号、48-49頁。〕。月組に配属された〔。 1974年9月から関西テレビ『ザ・タカラヅカ』にレギュラー出演するユニット「バンビーズ」の第十一期生に選ばれ、1年間、舞台を離れテレビで活動した〔。 舞台に復帰後、1976年の『ベルサイユのばらIII』配役変更公演の小公子や1977年の『風と共に去りぬ』(初演)新人公演アシュレ役と役付きも着実にランクアップし〔、1978年に当時のトップスターにして副組長兼任だった榛名由梨主演『隼別王子の叛乱』で新人公演初主演〔『歌劇』 宝塚歌劇団、1990年12月号、61頁。〕。また、いずみたくに歌唱力を認められ、レコード、CDを数枚リリースしている〔『歌劇』 宝塚歌劇団、1990年12月号、64-65頁。〕。 ステージに関しては一徹で厳格であったが、オフステージではファンのみならず多くの仲間に親切で気遣いを欠かさなかったという(久世星佳、麻路さき、若央りさ、轟悠、真織由季、天海祐希など月組所属であったものの談話より)〔「剣幸、その思い出と送る言葉」『宝塚グラフ』 宝塚歌劇団、1990年12月号、44-45頁。〕〔「愛と夢に乾杯!! - 剣幸を送る言葉 - 」『歌劇』 宝塚歌劇団、1990年12月号、70-77頁。〕。 1985年、大地真央の後を受け月組のトップスターに就任〔『歌劇』 宝塚歌劇団、1990年12月号、63頁。〕。相手役はこだま愛〔『歌劇』 宝塚歌劇団、1990年12月号、82頁。〕、トップ披露公演は『ときめきの花の伝説 / ザ・スイング』〔。 以降1990年まで5年間トップを務め、『ME AND MY GIRL』の1年間続演は宝塚史上初となった〔。 1990年サヨナラ公演『川霧の橋 / ル・ポアゾン 愛の媚薬』東京公演千秋楽をもってこだま共々退団した〔『歌劇』 宝塚歌劇団、1990年12月号、64頁。〕。 宝塚退団後は、舞台を中心にコンサートや映像、また2010年からは故郷・富山にてラジオパーソナリティや映画の吹き替えをこなすなど活動の幅を広げている〔 〕。(一時期、舞台以外の活動では平仮名の「つるぎみゆき」名義で出演していた〔 〕) 2011年よりオーバード・ホール名作ミュージカル上演シリーズに、第1弾『回転木馬』、第2弾『ハロー・ドーリー!』、第3弾『ME AND MY GIRL』と連続して出演し〔、第4弾は好評により『ハロー・ドーリー!』が、富山と東京で再演された〔『北日本新聞』2012年11月27日。〕。この再演で読売演劇大賞優秀女優賞を受賞した〔『読売新聞』2014年2月2日。〕。第5弾『ショウ・ボート』ではジュリー役で特別出演した〔『北日本新聞』2014年2月20日。〕。当初は、これで終了予定であったが『ME AND MY GIRL』が第6弾として再演された〔『ミュージカル』 ミュージカル出版社、2015年9・10月号、36-37頁。〕。 2015年、「宝塚歌劇の殿堂」入りを果たす。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「剣幸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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