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つボイ ノリオ(本名:坪井 令夫(読み同じ)、1949年4月18日 - )は、ラジオパーソナリティ、シンガーソングライター。有限会社坪井令夫商店代表取締役。愛知県中島郡奥町生まれ、同郡今伊勢町目久井(むくい)育ち(共に現在の一宮市)、名古屋市昭和区八事在住。中日ドラゴンズファン。 == 略歴 == 一宮市立今伊勢南保育園、一宮市立今伊勢小学校、一宮市立今伊勢中学校、愛知県立一宮高等学校、愛知大学法経学部経営学科卒。大学卒業後の就職先として、父親が社員であった名古屋鉄道の入社試験を受けるも、当時では異例のコネでの不採用となった〔軍司貞則『ラジオパーソナリティ〜22人のカリスマ〜』による。〕。卒業後、就職先もなくぶらぶらすることになる。その後、かつて大学在学中にCBCラジオの深夜番組『CBCヤングリクエスト』への出演したことをきっかけにして芸能界入りする。この出演時に歌った自作の曲「本願寺ぶるーす」で、1970年4月25日にテイチクレコードよりレコードデビュー(スリー・ステップ・トゥ・ヘブン名義)を果たす。 1972年5月に始まった『ミッドナイト東海』(東海ラジオ)のメインDJになってから本格的に名古屋でDJとして活躍開始するが、鈴蘭高原での野外イベント告知における、いわゆる「ウッドストック舌禍事件」の引責で森本レオに引き続いてわずか5ヶ月で降板する。また、同時に元スリー・ステップ・トゥ・ヘブン、元チェリッシュの奥山敬造、桑原宏司と「欲求不満フォークソング・ボーイズ」を結成して音楽活動も本格的にはじめる。ビクターレコードでデビューするものの、2年後に脱退。それにより、バンドも解散する。その後は、名古屋を中心にラジオパーソナリティとして活動。1973年よりCBCラジオの番組に出演するようになり、『土曜天国』や『ばつぐんジョッキー』などのCBCラジオの看板番組を数多く担当。天野鎮雄や兵藤ゆき、CBCアナウンサーの多田しげおや小堀勝啓(現・フリーアナウンサー)らと並ぶ名古屋のラジオスターとしての地位を確立する。また、放送禁止指定を受けた曲を多数発表。 1970年代後半には東京にも進出し、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)、『おはよう!こどもショー』(日本テレビ)、『プリンプリン物語』(NHK総合)、『つボイノリオのつっぱり30分』(ラジオ関東)などに出演するが、後に体調を崩し、東京での仕事を切り上げて名古屋へ戻る。1981年4月放送開始のKBS京都の深夜番組『ハイヤングKYOTO』の出演を契機に京都にも活動の場を広げる。『ハイヤン』終了後の1987年からは、朝のワイド番組『つボイノリオのおはようアドベンチャー』を担当。同番組担当時には、放送前日にパソコン持参でKBS京都が用意した京都ホテルの一室に泊まり込んでいた時期もある。 1985年、坪井令夫商店を設立。パーソナルコンピュータが8ビットが主流の時代、フォント(ていねい君、まるみちゃん、乱筆君)などを発売する。また、任天堂のファミリーコンピュータ用ソフトの製作下請けをしていたこともある。また、レコード会社を東芝EMIに移籍(1996年まで)。 インターネットラジオにも進出し、『つボイ@ラジオ』(アスキー)、『つボイ楽耳王』(ハラショー)を担当。後者は2005年5月に一旦終了したが、同年8月に生放送番組として復活。2010年9月3日をもって再度配信を終了した。 1993年10月〜現在、CBCラジオで朝9:00〜11:55に放送している『つボイノリオの聞けば聞くほど』のパーソナリティを務め、名古屋の朝のラジオの顔として活動中。また2006年よりiTunes Storeを中心に新曲を発表(CBCも絡んでいる)、ミュージシャンとしての活動も再開している。 2009年4月18日には、生まれ故郷の一宮市尾西市民会館で還暦記念クラシックコンサートを行なった。同年5月27日に体の不調を訴え、自ら病院へ向かって検査を受けた結果、軽い心筋梗塞であることが判明。約1か月間『つボイノリオの聞けば聞くほど』の出演を休養することが5月28日の番組冒頭でCBCアナウンサーの小高直子から発表された。休養中、番組パーソナリティは同じくCBCアナウンサーの塩見啓一が務めた。同年6月22日に復帰。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「つボイノリオ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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