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まつやまふみお : ウィキペディア日本語版
まつやまふみお

松山 文雄(まつやま ふみお、1902年5月18日 - 1982年3月3日)は、日本洋画家漫画家、童画家、美術評論家。小県大門、尾山大助などのペンネームも用いた。
== 概要 ==
長野県出身。高等小学校卒業後、画家を目指すため、1924年に上京し、1925年、本郷研究所に入る〔。同年6月、岡本帰一の知遇を得て、児童画を書き始める。その後、前衛美術の影響を受け、翌年10月、村山知義柳瀬正夢らが発起人となってできた日本漫画家連盟に参加する〔。しかし、1927年日本プロレタリア芸術連盟の美術部員となり、反戦ビラを中野通信隊の塀に貼って検挙、投獄されてしまう。1928年東京パックに「旅中小旅記」がはじめて掲載される。1929年、雑誌『戦旗』に徳永直太陽のない街の挿絵を執筆し〔、漫画を多数描いた。1930年、雑誌『ナップ』に論文「プロレタリア漫画の確立へ」を掲載。
1931年、絵本『ハンセンエホン誰のために』を刊行するも、発禁処分が下る。同年、非合法下の日本共産党に入党するが、翌年6月から2年8ヶ月間、治安維持法違反により投獄される〔。1935年に結婚し、同年4月、柳瀬正夢、加藤悦郎らと風刺画研究会を結成する。1940年壺井栄の『暦』、宮本百合子の『三月の第四日曜』の装丁を始めとし、数多くの装丁を手がける。本の装丁は最晩年まで、彼の仕事としてつづけられた(1976年に刊行された『宮本顕治公判記録』など)。
1945年には、日本共産党への再入党を果たし〔、「しんぶん赤旗」に「下からはねかえす力」を発表。1946年には、日本美術会に参加〔し、1947年、風刺雑誌クマンバチを創刊する。1964年から赤旗日曜版に「鳥獣戯画」を連載。
1980年に「画集まつやまふみおの世界」を刊行し、同書により、日本漫画家協会の審査員特別賞を受賞。同年、日本ジャーナリスト会議特別賞を受賞。1982年3月3日に、東京都渋谷区の代々木病院で死去する〔。
松山の作品は『赤旗』をはじめ、日本共産党の媒体に数多く掲載された。また、数多くの風刺画を執筆した。風刺の対象は多岐にわたり、部落解放同盟を風刺する作品も執筆している。〔『写真でみる"解同朝田財閥" 』日本共産党中央委員会出版局、1975年、3頁〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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