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むつ小川原開発計画 : ウィキペディア日本語版
むつ小川原開発計画[むつおがわらかいはつけいかく]
むつ小川原開発計画(むつおがわらかいはつけいかく)は、1960年代末より青森県上北郡六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナート製鉄所を主体とする大規模臨海工業地帯を整備することを目的とした開発計画。「世界最大の開発」〔むつ小川原開発・核燃料サイクル施設-概要 (web東奥日報)〕と言われたがコンビナートは実現せず、のちに原子力関連施設が進出することとなった。
== 経緯 ==
1968年12月23日、当時の通商産業省(現・経済産業省)は、太平洋ベルト地帯に集中していた重厚長大型産業を過疎地に移し、公害や過密問題を解決すべく、下北半島における工業地帯開発計画の構想試案を発表。1969年5月30日に閣議決定された新全国総合開発計画(新全総)に、同計画が盛り込まれた。
当初は天然の良港である陸奥湾や、工業用水の取水源としての小川原湖の活用が考えられていたが、陸奥湾でのホタテの養殖に成功した漁業者の強硬な反対や、小川原湖の湖水に塩分が含まれることが判明し、どちらも開発から除外され、県の部署の名称も「陸奥湾・小川原湖開発室」から「むつ小川原開発室」に改められた〔むつ小川原開発の経済分析 p27〕。1971年8月に公表した開発対象区域は陸奥湾沿岸を除いた1万7千ヘクタールであったが、2ヶ月後には7千900ヘクタールに修正。さらに1972年6月には製鉄所計画を撤回し、面積を六ヶ所村中心の5千500ヘクタールまで縮小した。日産200万バレル製油所、エチレン換算年間400万トンの石油化学工場、1千万キロワットの火力発電所を建設するとしたが、1973年の第1次オイルショックで製油所100万バレル、石油化学160万トン、火力発電320万キロワットまで縮小。さらに1979年の第2次オイルショックで頓挫した〔。
三井不動産系列の内外不動産は1968年6月頃より、積極的に開発地区での土地の買い占めを行い、1972年までに約5000ヘクタールの土地を取得。これは同期間の土地取得面積の50%を越え、突出したものであった。農家からは大規模牧場開発の名目で買い付けを行っており、一部は農地法違反で行政指導を受けている。三井不動産社長の江戸英雄は国土総合開発審議会委員を務め、新全総の策定にも関わったが〔むつ小川原開発の経済分析 p30-31〕、三井グループ1973年に進出を断念。内外不動産が取得したうち開発公社の買い上げの対象になったのは800haで、結果として利潤は大きくはなかった〔むつ小川原開発の経済分析 p35〕。
1980年7月23日むつ小川原港、同年11月11日には石油備蓄基地着工〔むつ小川原開発のあゆみ (経団連)〕。港湾は1983年9月1日に一部供用開始、備蓄基地は1985年9月〔むつ小川原開発の経済分析 p23では20日、経団連 サイトでは30日〕に完成したが、工業用地の多くが売れ残ったままであった。
2000年11月にはアメリカのエネルギー企業エンロンが天然ガス火力発電所の建設計画を発表したが、エンロンの破綻により翌年12月に計画が白紙撤回された〔むつ小川原年表 (デーリー東北新聞社)〕。
2001年には液晶ディスプレイ産業の集積を目指しクリスタルバレイ構想が始動したが、後述のとおり約10年で見直しを余儀なくされた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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