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松木屋(まつきや)は、かつて青森県に展開していた日本の百貨店。2003年閉店した。 なお、2000年に別会社として独立した「むつ松木屋」のほうは、現在も存続している。 == 歴史・概要 == 1921年(大正10年)12月1日に「神野伊三郎」が青森市の新町と柳町の交差点に木造3階建て約380坪の建物を建設し、「松木屋呉服店」(資本金100万円)として青森市で初めての百貨店を開業したのが始まりである。 当初は青森市内でただ1つの百貨店だったため、1931年(昭和6年)3月9日に起きた地震の際には1階の缶詰類の転落、3階の博多人形の転落・破損など詳細な被害が東奥日報で報道されたり、「彗星社」展(1922年(大正11年)6月11日)、「第2回光洋画会展覧会」(1922年(大正11年)6月11日)、「青光画社第7回展覧会」(1925年(大正14年)5月23日)、「青光画社第8回展覧会」(1925年(大正14年)11月28日)が開催されるなど当時の先端的な文化と生活の拠点として話題を呼んだ。 1937年(昭和12年)に成立した「百貨店法」で加盟が義務付けられたため、1938年(昭和13年)に日本百貨店組合が設立されると同時に菊屋百貨店やかくは宮川と共に加盟するなど第2次世界大戦前の青森を代表する百貨店の1つとして知られていたが、1945年(昭和20年)5月に空襲対策の道路拡張に伴い閉店に追い込まれた。 第2次世界大戦後の1947年(昭和22年)に「松木屋呉服店」の旧株主と旧店員が「株式会社松木屋」を設立して衣料品店を開き、1951年(昭和26年)菊屋百貨店のあった新町に鉄筋コンクリート造3階建ての建物を建設して移転し、百貨店として復活し、菊屋百貨店や富士屋百貨店と競争となったが1955年(昭和30年)には青森市では唯一の百貨店としての生き残りに成功した。 その後、1965年(昭和40年)には青森店が売上高13.7億円となり、売場面積で下回りながらも18.0億円の売上高となったカネ長武田百貨店に青森市の地域一番店の座を譲ったものの、1966年(昭和41年)には鉄筋コンクリート造4階建てに増築して青森県最大の百貨店とし、呉服店から規模を拡大して1961年(昭和36年)に百貨店となったカネ長武田百貨店と共に新町商店街の中核店舗として親しまれた。1970年(昭和45年)頃には6階建ての店舗が増築され、その上には新たに展望台が設置された。 また、1968年(昭和43年)にむつ市に「むつ松木屋」、1973年(昭和48年)に十和田市に「十和田松木屋」を開店して多店化したほか、1970年(昭和45年)に西武百貨店と提携するなど昭和40年代までは積極的な事業展開を図った。 その間の1974年(昭和49年)には近くの昭和通に五所川原市に本拠を置く中三百貨店が進出して青森市の百貨店は3店並立となっている。 しかし、1970年(昭和45年)に安方魚市場が閉鎖され、1981年(昭和56年)に青森県立中央病院が郊外移転するなど公共施設の郊外移転が進み来街者が減ったほか、1976年(昭和51年)に郊外型ショッピングセンターサンロード青森がオープンするなどモータリゼーションの進展と共に買い物客の郊外流出も進んだことから、1976年(昭和51年)に2万7,940人だった新町通りの歩行者通行量が1984年(昭和59年)には1万5,778人となるなど新町の集客力が急速に衰えると共に郊外のショッピングセンターなどとの激しい競争に巻き込まれて中心市街地の売上が1988年(昭和63年)の927.93億円から2002年(平成14年)には674.93億円へ落ち込んだ影響を受けて松木屋も1997年(平成9年)には年商71.48億円だったのが、2000年(平成12年)には年商56.89億円とわずか3年で20.4%も落ち込むなど売上が減少し、2003年(平成15年)4月23日閉店に追い込まれ、2003年(平成15年)5月9日自己破産を申請し、2003年(平成15年)5月12日破産宣告を受け、消滅した。 西武百貨店と提携していた関係で、ハウスカードはセゾンカードで、西武ライオンズが優勝した際には、記念セールも行われていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松木屋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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