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もく星号墜落事故 : ウィキペディア日本語版
もく星号墜落事故[もくせいごうついらくじこ]

もく星号墜落事故(もくせいごうついらくじこ)は、1952年4月9日伊豆大島に旅客機が墜落した航空事故である。事故機を運行していたのは日本航空であったが、当時の日本は太平洋戦争敗戦による被占領中で日本人による自主的航空運営が認められていなかったため(日本国との平和条約が締結され占領が解かれたのは月末)、営業面のみを担当し、航空機の整備と運用はノースウエスト航空に運航を委託していた。この委託運航に使われたマーチン2-0-2型機のうち事故機(機体記号:N93043)の愛称が「もく星号」であった。
==事故の概要==
1952年4月9日大阪を経由し福岡に向かう予定の「もく星号」は、羽田飛行場を日本航空301便、として午前7時42分に離陸した。客室乗務員は日本人であったが、前述の事情により機長(当時36歳)と副操縦士(当時31歳)はアメリカ人であった。また航空管制官も全てアメリカ人だった。
アメリカ当局が日本政府に提出した交信記録(タイプ)によれば、羽田飛行場の管制官は、ジョンソン基地(現在の入間基地)にある航空管制センターの指示に基づいて、米軍機が10機飛行していたことから「大阪までの飛行高度は6000フィート。羽田から館山房総半島南部)上空まで2000フィートを計器飛行、館山南方10分間飛行高度を2000フィートにて保持、次いで(巡航高度の)6000フィートに上昇」との指示を出発前に与えていた。この指示に対し機長と運行主任は館山から大島まで約7分の距離である上、規定高度も4000フィートであると抗議した。これは航空路に標高2474フィート(754メートル)の三原山があり、2000フィートでは三原山を越せないのは確実であった。そのため、航空管制官は航空管制センターの指示は誤りであるとして、館山ではなく羽田出発後10分間は高度2000フィートを維持、その後6000フィート」と訂正した。
午前7時57分に「もく星号」から「館山通過、高度6000フィートで雲中飛行、8時7分大島上空予定」と報告した。だが直後の午前7時59分ごろ伊豆大島上空で消息を絶った。当時は暴風雨と濃霧という気象だった。直ちに大規模な捜索が行われたが、翌日の朝に捜索活動を行っていた同僚機の「てんおう星号」(ダグラスDC-4)によって、伊豆大島の三原山噴火口の東側1Kmの御神火茶屋付近の山腹に墜落しているのが確認され、乗客・乗務員37名全員死亡という当時としては大規模な航空事故となった。
この当時飛行機の運賃は他の公共交通に比べ高い乗り物だったことから、乗客も社会的地位が比較的高い人間ばかりであり、活弁士・漫談家の大辻司郎八幡製鐵社長の三鬼隆などの著名人を含め、日立製作所取締役石川島重工役員ハワイホテル支配人、炭鉱主、国家公務員などが犠牲となった。なお、講談師の五代目一龍斎貞丈も大辻と同じ仕事のため飛行機で向かう予定であったが、東京での仕事があって出発が1日遅れとなったことから難を逃れた。また、ロイヤル社長の江頭匡一も、東京での仕事が長引いて出発が1日遅れたことで事故に巻き込まれることを免れた〔ちなみに、江頭のキャンセル待ちで搭乗して犠牲になった乗客は、後にロイヤルホストの出店用に購入した土地の地主の親族であった。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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