|
アイマン・ムハンマド・ラビーウ・アッ=ザワーヒリー ( , 1951年6月19日 - )は、アルカーイダの作戦及び戦略責任者とされる人物。報道等では「ザワヒリ容疑者」と表記される事が多い。外務省は「アイマン・ムハンメド・ラビ・アル・ザワヒリ」名で特定している〔。アラビア語、フランス語、英語を話す事ができる。ウサーマ・ビン・ラーディンの死後、後継者としてアルカーイダの司令官(アミール)に就任したと見られている。 ==プロフィール== === 生い立ち === 1951年に、カイロ郊外のマアーディの中流家族に生まれた。父は薬学と化学の大学教授で一族で医家を成し、母は政治的に有力な一族の出であった。また祖父はアズハル大学の著名なイマームであった。ザワーヒリーは成績優秀で詩歌を好み、争いを好まない穏やかな性格であった。ザワーヒリーの両親も敬虔ではあるが狂信的なムスリムではなかった。サイイド・クトゥブの思想的影響が広がる中で、叔父の影響を受け、政治やイスラーム主義に関心が向い、14歳でムスリム同胞団に入団。翌年、クトゥブがエジプト政府に処刑されたためザワーヒリーらは地下活動に移った。当時、ザワーヒリーは「クトゥブ主義を行動に」とスローガンを記している。カイロ大学医学部に進み心理学と薬学、そして外科医学を専攻し、1974年に卒業するとエジプト陸軍で3年間外科医を務め、その後、実家の傍に開業した。1978年には修士号も取得、眼科医として卓越した技術を持つ。その年、カイロ大学で哲学を専攻していた女性と結婚した。二人は1男5女をもうけた。その頃にはザワーヒリーらの活動はジハード団に統合されていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アイマン・ザワーヒリー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ayman al-Zawahiri 」があります。 スポンサード リンク
|