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アイラウの戦い[あいらうのたたかい]
アイラウの戦い(アイラウのたたかい)は、1807年2月7日から2月8日にかけて東プロイセン南部の小さな町アイラウ(現:バグラティオノフスク)の郊外でおこなわれた会戦。当時としては異例の冬季に発生した イエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破した後、ナポレオン・ボナパルトは6万の兵でポーランドへ逃げたプロイセン・ロシア連合軍7万に決戦を挑んだ。しかし、吹雪や情報不足(一方、フランスの伝令がコサック騎兵に命令書ごと捕獲されたことで、フランス軍の動きは連合軍に捕捉されていた。)でフランス軍は苦戦を強いられた。 シャルンホルスト率いるプロイセンの軍団がフランス軍の側面を衝こうとしている中、ロシア軍の攻撃によりオージュロー元帥が重傷を負い、本営が襲撃を受けるなど、あやうくフランスの大敗北になるところであったが、ミシェル・ネイ元帥の援軍が到着し、根負けしたベニグセンが軍を退いたことで逆転勝利した。プロイセン・ロシア連合軍は2万3000名の死傷者を出し敗走。しかし、フランス軍も2万2000名の死傷者を出し辛勝であった。 この会戦で常勝フランス軍が痛み分けに甘んじたことはヨーロッパ中に知れ渡ったが、その後ナポレオンは軍を立てなおし、5月27日にプロイセンが守るダンツィヒを攻略し、6月14日にフリートラントの戦いでロシアに大勝した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アイラウの戦い」の詳細全文を読む
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