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アイレス写真機製作所(アイレスしゃしんきせいさくしょ)は日本の東京都新宿区西大久保1-437〔『アサヒカメラ1958年9月号』p.195。〕にかつて存在したカメラメーカーである。 == 歴史 == === 前史、ヤルー光学 === 前身は1949年に設立され東京都港区芝新桜田町(現西新橋)6番地〔『クラシックカメラ専科No.23、名レンズを探せ!トプコン35mmレンズシャッター一眼レフの系譜』pp.126-127。〕にあったヤルー光学(''Yallu Optical Co. Ltd'' )である。 三橋剛は第二次世界大戦中陸軍造兵廠で兵技中尉として各種光学兵器の生産や修理の監督任務を担当し、戦後はその人脈から岡田光学製ワルタックスの販売等をしていた〔『クラシックカメラ専科No.22、アイレスのすべて/アトム判カメラの世界』pp.4-7「アイレスのすべて」。〕。ある時新橋のカメラ店で中古のコンタフレックスが10万円で販売されているのを見てこれと同等の製品を作れば売れると直感しすぐさま設計に着手、1947年には二眼レフカメラの設計に没頭していたところ、岡田光学精機(後の第一光学)社長の岡田至弘から金谷相吉という韓国人企業家を紹介されて資金を得、カメラ製造に乗り出すことになった〔。得た資金で中古旋盤を1台購入、部品の調達は造兵廠時代の人脈を生かしてレンズは小西六(後コニカを経て現コニカミノルタ)のヘキサー50mmF3.5、シャッターはセイコーシャを入手した〔。事務所は新橋田村町に置き、会社名はヤルー光学、カメラはヤルーフレックスと命名された〔。ヤルーは金谷相吉の故郷にある鴨緑江の中国名に由来する〔。1947年7月にはレントゲン用フィルムの生産を優先するため連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からロールフィルム生産禁止命令が出て120フィルムや127フィルムを使用するカメラの需要が減退していたことも、このカメラの開発を後押しすることになった〔。 1949年に発表され〔『クラシックカメラ専科No.22、アイレスのすべて/アトム判カメラの世界』pp.8-19「アイレスカメラのすべて」。〕、アサヒカメラ復刊号となる1949年10月号から1950年4月号まで計7回の広告を出し、パンフレットまで用意したが、生産販売には移行しなかった〔。当時販売されていたどのカメラより構造が複雑で、資材インフレが進んでいた当時もし本格生産に移行していれば作っただけ赤字が増えただろうと萩谷剛は推測している〔。また1949年にはロールフィルムの生産禁止も解除されていた〔。 会社は一旦整理された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アイレス写真機製作所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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