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アウグスト・ヴァイスマン : ウィキペディア日本語版 | アウグスト・ヴァイスマン
フリードリッヒ・レオポルト・アウグスト・ヴァイスマン(Friedrich Leopold August Weismann, 1834年1月17日 - 1914年11月5日)はドイツの動物学者。オーギュスト・ワイスマンなどとも表記される。フライブルク大学動物学研究所所長。専門は発生学・遺伝学。エルンスト・マイアは彼をチャールズ・ダーウィンに次いで19世紀で二番目に重要な進化理論家であり、同時に自然選択を実験的に検証しようとした最初の一人であり、熱烈なナチュラリストでもあったと表現した〔エルンスト・マイア『進化論と生物哲学』pp.475-510「ワイスマンの進化学者としての成長について」八杉貞雄・新妻昭夫訳、東京化学同人、1994年〕。 == 生涯 == 古典と神学を学んだ高校教師の父親ヨハン・コンラート・ヴァイスマンと市議会議員の娘である母エリーザの元に、フランクフルト・アム・マインで生まれた。19世紀の典型的な上流階級の教育を受け、4歳から音楽を、14歳からは絵とスケッチのレッスンを受けた。彼のピアノの教師は熱心な蝶のコレクターで、蝶や青虫の収集を彼に教えた。しかし自然科学を学ぶことは彼の将来の仕事とは関係がないと見なされ、家族の友人フリードリッヒ・ヴェーラーからは薬学の勉強を勧められた。16歳の時に母エリーザが亡くなり、その遺産によってゲッティンゲン大学で学ぶことができた。1856年に卒業すると人体における馬尿酸の合成に関する論文を書いた。 卒業後にロストックの都市病院で助手の職を得た。その後病院と博物館で学ぶためにウィーンに留学し、医師の資格を取って卒業した。1859年にオーストリアとフランス・イタリア間に第二次イタリア独立戦争が起きると、ヴァイスマンは軍医として従軍した。休暇の間には当時オーストリア領であった現在の北イタリアやチロル地方を巡った。 戦後、パリでサバティカルを送った後、ギーセン大学でルドルフ・ロイカルトとともに働いた。1861年から1863年まで追放されたオーストリア大公の一族ステファンの個人医としてフランクフルトに戻った。1863年からフライブルク大学で講師、1865年から教授、1873年から1911年まで動物学研究所の所長を務めた。この間の1879年には、後に作曲家になる息子ユリウス・ヴァイスマンが生まれている。1912年に引退、1914年にフライブルクで死去した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アウグスト・ヴァイスマン」の詳細全文を読む
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