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アウハディー・マラーギー( Awḥadī Marāghī〔''Encyclopedia of Islām'' 3rd ed 及び ''Encyclopædia Iranica'' では項目名を "Awḥadī Marāghī" としているが、Saʿīd Nafīsī 校訂の『アウハディー全集』(''Kullīyāt-i Awḥadī Iṣfahānī maʿrūf bi Marāghī'')や Muḥammad Ramaz̤ānī 校訂の『詩人伝』(''Kitāb-i Taz̲kirat al-Shuʿarāʾ'')では اوحدی مراغی とのみあって、 مراغى の部分にエザーフェやハムザが確認出来ず Marāghī と読むべきと思われるため、本項目では「アウハディー・マラーギー」とする。〕, اوحدی مراغهای Awḥadī Marāgha'ī 、生没年 1274年頃 - 1338年)はイルハン朝第9代君主アブー・サイード・バハードゥル・ハンの時代に活躍したスーフィー詩人。フルネームはアウハドゥッディーン(もしくはルクヌッディーン)・イブン・フサイン・イスファハーニー Awḥad al-Dīn (or Rukn al-Dīn) b. Ḥusayn Iṣfahānī 。 現在のイラン北西部、東アーザルバーイジャーン州のマラーガ(マラーゲ)に居住しそこで死去したため、通例、「マラーギー」 Marāghī(マラーガイー Marāgha'ī)と呼ばれるが、彼の父フサインがイスファハーンの出身でアウハディー自身もイスファハーンで生まれ生涯の多くをそこで暮らしているため、アウハディー・イスファハーニー Awḥadī Iṣfahānī とも呼ばれている。また、彼の尊称もアウハドゥッディーン اوحد الدين Awḥad al-Dīn 、もしくはルクヌッディーン ركن الدين Rukn al-Dīn が用いられている。 ==生涯== アウハディーの代表作『ジャムの酒杯(''Jām-i jam'')』の一節で述べられているところよると、彼はヒジュラ暦673年(1274年)頃にイスファハーンで出生し、十代後半までその地で過ごしていたという。1290年代初頭から各地を遊歴していたようで、バスラ、バグダード、ダマスクス、スルターニーヤ、カルバラー、クーファ、ナジャフ、クム、ハマダーンといった諸都市を巡ったという。また、『ジャムの酒杯』によれば一時期メッカにも居住していたという〔Leonard Lewishon p.59〕〔Saʿīd Nafīsī "Jām-i Jam" bayt 10559〕。 アウハディーは当初「サーフィー」(Ṣāfī)という筆名を用いていたが、程なく「アウハディー」に代えている。ティムール朝後期の詩人ダウラトシャー・サマルカンディー Dawlat-Shāh Samarqandī(1508年没) の『詩人伝』( تذكرة الشعراء ''Tadhkira al-Shuʿarā' '')などによれば、13世紀前半の有名なスーフィー詩人アウハドゥッディーン・キルマーニー Awḥad al-Dīn Abū Ḥamīd al-Kirmānī :en (1238年没)の作品に深く傾倒したため、キルマーニーの「アウハドゥッディーン」という尊称に因み改ねたのだという〔ダウラトシャーはアウハディーはキルマーニーの弟子(murīd)であると述べているが、キルマーニーはアウハディーが誕生する40年近く前に既に死去しているため、年代的に錯誤している。〕。 1306年、三十代半ばでマラーガに居を構えてそこで生活するようになったが、マラーガの北1日行程にありイルハン朝の宮廷があったタブリーズにもしばしば赴いていた。アウハディーの活躍していた時期はアブー・サイード・ハンの治世(在位1316年 - 1335年)と時期が重なっており、イルハン朝後期、特にアブー・サイード時代を代表する詩人のひとりであった。1338年4月6日、マラーガで死去した。死去の後に墓廟が建設され現在に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アウハディー・マラーギー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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