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アキテーヌ公[あきてーぬこう]
アキテーヌ公()は、フランスのアキテーヌ地方の君主。アキテーヌ公の所領を表す語として、アキテーヌ、ギュイエンヌ、ガスコーニュの語が使われるが、この3つは厳密な使い分けが必ずしもなされていない。ギュイエンヌはアキテーヌのうちポワトゥーを除く北西部を、ガスコーニュは南西部を示すことが多い〔朝治啓三他編著『中世英仏関係史1066-1500』創元社、2012年、p.85〕。 == 歴史 ==
=== 成立 === アキテーヌ地方は6世紀初頭までは西ゴート王国の領土であったが、507年のヴイエの戦いにおいてクロヴィス1世がピレネーまでの領域を征服し、フランク王国の領土となった。クロヴィス1世の死後、その王領は諸子に分割相続され、王家で継承された。しかし、カリベルト2世の死以後、現地の公に率いられた独立の勢力がたびたびフランク王権と対立した。8世紀当初にはボルドーの伯ウードがフランク王国から独立した支配を固めていた。しかし、729年にイベリア半島から率いるウマイヤ朝の軍勢がアキテーヌに侵入し、ウードはイスラム軍に敗れた。そこで、ウードはカール・マルテルに援軍を求め、732年、トゥール・ポワティエ間の戦いにおいてカール・マルテルはイスラム軍を破った。760年、フランク王ピピン3世は、アキテーヌ公ワイファリに対し、彼が不法に略取している教会領の返還を命じたが、ワイファリは逆にオータン、シャロン、トゥールなどの地方にまで侵略してきた。結局、ワイファリは768年に部下により暗殺され、アキテーヌ公による抵抗は一旦終結した〔柴田三千雄他編『世界歴史大系 フランス史1』山川出版社、1995年、p.158〕。翌769年には、ワイファリの息子で跡を継いだウナール2世が再び叛乱を起こし、カール1世は弟カールマンとともにこれを鎮圧した〔佐藤彰一『世界史リブレット人シリーズ カール大帝』山川出版社、2013年、p.23〕。778年、カール1世はヒスパニアに遠征したが失敗に終わった。そこで、ヒスパニアと接する地域であり、これまで王権と対立してきたアキテーヌを確実に掌握するために、生まれたばかりの王子ルートヴィヒ(後のルートヴィヒ1世)を王とするアキテーヌ王国を創設する一方、アキテーヌ地方の9人の伯を全員フランク人から選んで、多くの修道士とともに送り込んだ〔同上、p.33〕〔柴田三千雄他編『世界歴史大系 フランス史1』山川出版社、1995年、p.158〕。アキテーヌ王国はその後ルートヴィヒ1世の息子ピピン1世、さらにその息子ピピン2世に継承され、ピピン2世の後は西フランク王家がその所領を相続し、西フランク王国の一部となった。アキテーヌ公位については、9世紀後半から10世紀後半にかけて、ポワトゥー伯家、オーヴェルニュ伯家、トゥールーズ伯家の間で争われたが、10世紀後半にポワトゥー伯ギヨーム3世がアキテーヌ公となって以降は、ポワトゥー伯家が12世紀まで公位を継承した〔堀越孝一編『新書ヨーロッパ史 中世編』講談社現代新書、2003年、p.52〕。11世紀半ばにはポワトゥー伯家はガスコーニュ公領も継承し〔同上、p.52〕、当時のアキテーヌ公の権力はロワールからピレネーの山麓まで、そしてオーヴェルニュの中央山岳地帯から大西洋にまで広がっており、フランス王の領地よりはるかに広大で豊かであった〔桐生操『王妃アリエノール・ダキテーヌ-リチャード獅子王の母-』新書館、1988年、p.15〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アキテーヌ公」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Duke of Aquitaine 」があります。
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