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アギロルフィング家[あぎろるふぃんぐか] アギロルフィング家(, )は、中世前期ドイツにおいてバイエルン公としてバイエルン族を支配した家系である。また、7~8世紀初頭にかけて、傍系からランゴバルド王を出した。 ==概要== アギロルフィング家はブルグント出身とみられるが〔ツェルナー、p.60〕、555年頃にガリヴァルド1世がバイエルン族の公となったのが始まりである。ガリヴァルド1世は556年にランゴバルド王女でフランク王テオデバルドの寡婦ワルトラーダと結婚した。ガリヴァルドが590年にフランク王国に敗れ、代わってタッシロ1世がフランク王キルデベルト2世によりバイエルン公とされた。それ以降の記録はしばらく途絶えるため詳しくは不明である。715年、テオド公はローマ巡礼に際して、4子に王国を分割相続させた。725年に末子グリモアルドが再び全バイエルンを統一して統治していたが、フランク王国の宮宰カール・マルテルがバイエルンに侵攻し、グリモアルドの妃プレクトルーディと姪スワナヒルドを連れ去った。スワナヒルドは後にカール・マルテルの後妻となり、グリフォを生んだ。728年に再びカール・マルテルはバイエルンに侵攻しグリモアルドは暗殺された。次の公フグベルトは親フランク的立場であったが、そのあとを継いだオディロは、743年にフランク王国に対し蜂起したものの、レッヒでカール・マルテルの子ピピン3世に敗れた。748年、ピピンの異母弟で母がアギロルフィング家出身のグリフォが反乱を起こし公位の簒奪を試みるも失敗し、公位はオディロの子タッシロ3世に与えられた。756年にはタッシロ率いるバイエルン族はフランク王となったピピンのランゴバルド王国との戦いに参加し、翌757年にはピピンに忠誠を誓った。しかし、タッシロは妻の父ランゴバルド王デシデリウスと協力し、バイエルンのフランク王国からの独立を図った。タッシロは、774年のピピンによるランゴバルド王国征服の際は中立の立場をとり、781年にはピピンの跡をついだカール大帝に忠誠を誓い人質を差し出したものの、788年にはピピンに対する裏切り等やアヴァール人への協力などの罪状により告発され、死罪を宣告された。最終的にはタッシロは恩赦によりロルシュ修道院に幽閉され、そこで死去した。これ以降、バイエルンはカロリング朝フランク王国に支配されることとなった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アギロルフィング家」の詳細全文を読む
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