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アクバルジ晋王(、英語:Agbarjin、1423年 - 1453年)は、モンゴル帝国の第28代(北元としては第14代)皇帝(大ハーン)。アジャイ太子の次男〔一説にはアジャイ太子とアダイ・ハーンは同一人物とされる(岡田 2010,p270)〕。タイスン・ハーンの弟。マンドゥールン・ハーンの兄。『アルタン・トプチ』ではアブガルジン()、漢文史料では阿八丁王とも記されているが、原音はアラビア語Akbar al-dinではないかと推測されている〔岡田 2010,p279〕。 ==生涯== 1423年、アジャイ太子の次男として生まれる。 1438年、兄のタイスン・ハーンがアダイ・ハーンを攻め殺して単独でハーンとなると、翌年(1439年)、17歳のアクバルジ太子はタイスン・ハーンから晋王(ジノン)の称号を与えられ、右翼のトゥメンを統率した。 1452年、タイスン・ハーンとエセン太師との間で後継争いが起き、四十(ドチン)モンゴルと四(ドルベン)オイラトに分かれて戦となった。初めはモンゴル軍が優勢であったが、この戦の中でオイラト側のテレングス部のアブドラ・セチェンがタイスン・ハーンとアクバルジ晋王を離間しようと考え、アクバルジ晋王を説得したところ、アクバルジ晋王がこれに応じたため、形勢は逆転し、タイスン・ハーン率いるモンゴル軍は敗れ、タイスン・ハーンはウリヤンハン部に逃れたところを殺された。 アクバルジ晋王は息子のハルグチュク太子の諫めも聞かず兄を裏切ったため、オイラト人からもモンゴル人からも陰で嘲笑され、「アクバルジが驢馬になった」と馬鹿にされる始末だった。オイラト人たちはアクバルジ晋王よりもその息子のハルグチュク太子を恐れていたため、彼ら父子を殺そうと考えた。エセン太師はハルグチュク太子が自分の娘婿であるためかばおうとしたが、アブドラ・セチェンは謀りごとを企み、アクバルジ晋王をハーンにつけたところで殺害しようと考えた。こうしてアクバルジ晋王はハーンに、エセン太師は晋王にのぼり、オイラト人たちは二軒の大きな帳幕を合わせ、モンゴル人たちを集めて大宴会を開催した。アブドラ・セチェンはアクバルジ・ハーンらを順々に中へ案内すると同時に殺害していき、隣のゲルの穴の中へ放り込んでいった。ハルグチュク太子は事前に気づいて従者のイナク・ゲレという者と一緒に脱出したが、トクモク部のアク・モンケという者の家で殺された。 1453年、エセン晋王はハーンとなり、四十モンゴルと四オイラトを支配した。 〔岡田 2004,p195-205〕 明朝においては景泰二年(1451年)末頃のモンゴル情勢として、「エセンはトクトア・ブハ(タイスン・ハーン)を咎め、エセンの外甥阿八丁王(アクバルジ)の息子(ハルグチュク)を太子としようとした」という報告が記録されている〔和田 1959,p334-33頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アクバルジ晋王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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