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アグーネンダの戦い(アグーネンダのたたかい)は、1957年5月23日から5月25日にかけてアルジェリアアルジェ南方の山岳地帯アグーネンダで生起したフランス陸軍とFLN戦いである。 == 経緯 == 1957年5月初め、FLNの第41コマンド隊(通称:アリ・ホッジャ隊。パレストロの戦いのアリ・ホッジャが部隊創設に関与している)はフランス軍スパッヒ隊(北アフリカ騎兵)に待ち伏せ攻撃を与え7人の戦死者を出しながらもフランス軍に約60人を戦死させた。退却する際に指揮官シ・アゼディーネは航空機による機銃掃射を受け、12.7mm弾が右腕前腕部を引きちぎり一時重態であった。 それから約2週間後の5月21日に、メデア付近で第5アルジェリア狙撃兵大隊の分遣隊を待ち伏せた。フランス人大尉含む10人の兵士を戦死させ残りの多数を投降するように説得している間まで第41コマンド隊の損害は戦死1人負傷者2人だけであった。 アルジェの戦いが終わったばかりのマルセル・ビジャールは指揮下の第3植民地落下傘連隊をもって一連の事件を引き起こしているFLN部隊を討伐すべくカビリー山地西端地帯へ派遣された。 フランス軍情報部はシ・アゼディーネの第41コマンド隊と他の2個中隊300人そして第4ウィラヤ司令官がメデアで合流することが明らかとなった。この情報を受けたビジャールは第41コマンド隊を待ち伏せることに決心し、予想進路であるブリバーン・ワジの途中にある山村アグーネンダを選定した。 5月22日夜から翌日にかけてシディ駐屯地から第3植民地落下傘連隊は部隊を展開させた。700人からなる部隊はトラックで895高地に運ばれ5月23日0130時に到着、そこから四方に散開し4時間かけて物音を立てずに各中隊は位置についた。連隊戦闘指揮所と迫撃砲部隊は1298高地に配置。第1中隊、第2中隊(944高地)、第3中隊及び偵察隊は、それぞれ予想侵入経路を見渡せる4つ高地の頂上に位置し特に第3中隊は北の離れた高地に配置、10km四方を弧状に展開した。 ヘリコプターと対地攻撃航空機はメデアからいつでも急行できるよう待機中であり、第4中隊(907高地)と支援中隊は連隊予備として待機させた。 やがてFLN部隊は接近してきたが、羊飼いによって事前にフランス軍展開の情報を知らされていたため、待伏せは失敗した。ビジャールは撤収を選ばず、ただちに強襲に切り替える決心をした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アグーネンダの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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