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アシッド・ジャズ(''acid jazz'')は、1980年代にイギリス〔GROOVE誌 2001.MARCH〕〔〔〔UKジャズ・ダンス・ヒストリー "From Jazz Funk & Fusion To Acid Jazz"〕 のクラブシーンから派生したジャズの文化。ジャズ・ファンクやソウル・ジャズ等の影響を受けた音楽のジャンル。レコードレーベルの名称。 == 概要 == 1981年、DJのポール・マーフィーがロンドン・カムデンのクラブ「Electric Ballroom」にて、ジャズのレコードを選曲したイベント「Jazz Room」を開催した。また、マンチェスターのクラブ「Berlin」では、DJのコリン・カーティスとダンス・グループのジャズ・ディフェクターズによるジャズ・イベントが話題となり、ジャズに合わせて踊る文化が生まれた。〔ミュージック・マガジン誌 1992年12月号〕 「Jazz Room」は、1984年にロンドン・ソーホーのクラブ「The Wag Club」へ移転し、ジャイルス・ピーターソン、バズ・フェ・ジャズらのDJを輩出した。〔〔〔〔 1985年にサイモン・ブース率いるワーキング・ウィークは、「Electric Ballroom」で選曲されていたフュージョンに影響を受けてアルバム「Working Nights」を制作した。サイモン・ブースは、アルバム「Working Nights」に収録された「Stella Marina」がアシッド・ジャズとして最初に作られた楽曲であるとの見解を示している。〔〔 1985年、DJのクリス・バングスとジャイルス・ピーターソンによりジャズ・イベント「Special Branch」、「Mambo Madness」が開催され、クラブにおけるジャズ・シーンが発展する。その後、「Special Branch」は、スペインのイビサ島で開催されるまでに規模が拡大した。〔 1986年に、ロンドン・カムデンロックのクラブ「Dingwalls」で開催されたジャイルス・ピーターソン、パトリック・フォージ、ボブ・ジョーンズらのDJによるイベント「Talkin' Loud and Saying Something」が反響を呼び〔Discogs Gilles Peterson & Patrick Forge Present - Sunday Afternoon At Dingwalls〕、ジャズのムーブメントは定着していった。この頃より、クラブシーンから派生したジャズの文化を「アシッド・ジャズ」と呼んだ。アシッド・ジャズ・シーンは、従来のジャズ・ダンス・シーンと音楽性に変わりはなく、同一のジャズ・ムーヴメントを指している。〔 1988年、ファッション雑誌「I.D.」が、クリス・バングス、ジャイルス・ピーターソンらを特集したことにより、アシッド・ジャズ・シーンは急激に勢いをつけ、1990年には、イギリス全国のクラブ、バー、パブ、大学等で数多くのイベントが催され、アシッド・ジャズのスタイルが確立した。〔 アシッド・ジャズの普及には、ポール・ブラッドショウが編集長を務める音楽雑誌「Straight No Chaser」も貢献した。〔〔 同誌はアシッド・ジャズを記事で頻繁に取り上げた他、アートワークを重視しアシッド・ジャズのイベント・フライヤーを手掛けるイアン・スウィフト(Swifty)を表紙のデザイナーに起用した。イアン・スウィフトは、ジャイルス・ピーターソンが設立したレーベル「トーキング・ラウド」のアートワークも数多く手掛けている。〔 アシッド・ジャズを掲げたクラブのイベントでは、ジャズ・ファンク、ソウル・ジャズを中心に、ジェームス・ブラウン等のファンク〔、ハンク・モブレーの「Recado Bossa Nova」やリー・モーガンの「The Sidewinder」等のスタンダード・ジャズから、ボサノヴァ/ブラジリアン、ブーガルー等のラテンジャズまで、様々な楽曲がDJによって選曲された。〔remix誌 1992.MAY〕 また、時代の経過とともに、ジャズの音源をサンプリング・ソースに用いたヒップホップやハウスも選曲されるようになった。〔〔「Dance Wicked New Jazz In London」ライナーノーツ〕〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アシッドジャズ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Acid jazz 」があります。 スポンサード リンク
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