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アッシニア(, 発音例 )とは、1789年12月19日から1796年3月10日までの間、フランス革命期のフランスおよびその姉妹共和国で使用された紙幣である。もともとは土地債券で、利子付きであり、担保も設けられた公債であったが、歳入と正貨の著しい不足から、不換紙幣として強制流通されることになった。しかし激しいインフレを引き起こして、経済と革命とを大混乱させ、最終的には廃止された。カナ表記はアシニア、アシニャ(こちらがフランス語の発音に忠実)、アッシニャともされる。〔希だが、英語読みは「」となり、英語圏ではGを発音する〕 == 概要 == アッシニアとは、もともとアシニャシオン()という「支払いに充当すること」を意味するフランス語からの造語〔で、為替手形であり、一定の収入を抵当〔当時のフランスの習慣では、土地のみならずその土地で収穫される作物(税収)の額も担保となる〕とする債券であった。当時のフランス人の生活においては、この種の有価証券はよく見られた一般的なもので、旧体制で将来の税収を担保にした徴税請負人手形と同じような、あるいはもっと確実なものと当初は見なされた。 しかし立憲議会が同時に銀単本位制を導入したこともあって、アッシニアは正貨に対しては初めから不利な取引となった。そして政府信用の欠如、革命戦争の勃発、過剰な増刷、イギリスによる政策的な偽札の大量密輸など、様々な理由から人々は紙幣を信頼しなくなり、インフレを引き起こした。これは正貨を多く持てない市民(サン・キュロット)の生活を逼迫させ、ブルジョワジー支配の政治への強い不満の原因となり、特に商業への不信感を募らせ、革命を極左化させた。公安委員会政府は統制経済で抑制を図るとともに、正貨を回収して輸出入を取り締まり、アッシニアを強制流通させて唯一の政府紙幣とすることで沈静化を図った。これらは一定の効果があり、最大約5分の1まで減価したアッシニアは一時的に半分ほどに回復した。 しかしテルミドールのクーデター後、自由主義経済に戻ると、通貨政策は再び崩壊し、アッシニアは1795年にハイパーインフレを起こした。総裁政府は増刷に増刷を重ね、紙幣の信用は失われて経済は破壊された。通貨単位をリーヴルからフランに変え、さらにデノミネーションを行ったが効果はなかった。発行総額はついに450億フランにも及び、最高時には340億フランが流通していた。アッシニア増刷依存の悪循環から抜け出す最後の策として、政府は1796年3月10日にアッシニアの廃止を決断し、これ以上刷れないように造幣工場の印刷板を破棄した。しかし財政難のためにアッシニアの償還は先送りされたため、結果として金属貨は極端に不足し、一部では外国貨までが使用される始末で、経済は混乱した。財源のない政府は新紙幣として〔 「土地手形」や「土地証券」などとも訳す。単数形ではマンダ・テリトリアル。(Mandats territoriaux)〕を新たに発行して、これとの交換という形で市場からアッシニアの全面回収に着手した。しかしマンダ・テリトリオは、紙切れ同然となったアッシニアを大量に保有する裕福なブルジョワジーのために国有地と交換する権利を付与してやったに等しい行為であったので、バブーフの陰謀〔バブーフ派のマレシャルが書いた「平等派の宣言」においてマンダ・テリトリオは悪徳や強欲から生まれたもとして特に激しく非難された〕に見られるように国内の激しい反発を招いた。このために1797年2月7日にマンダ・テリトリオも廃止された。アッシニアは価値を失っていたが、回収は総裁政府が倒れるまで続けられた。 ブリュメールのクーデターの後、フランスは正貨に逆戻りし、統領政府においては金銀複本位制が導入された。新政府は旧総裁政府の負債9,000万フランの大部分の引き継ぎを拒否した。債務不履行による破産政策は、旧体制から続くフランス政府の債務削減の常套手段であった。ナポレオンは紙幣を好まず、彼の治世では新紙幣は創られなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アッシニア」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Assignat 」があります。 スポンサード リンク
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