翻訳と辞書
Words near each other
・ アシュモーリアン博物館
・ アシュラ
・ アシュラ (漫画)
・ アシュラガンダム
・ アシュラシステム
・ アシュラスコープインスタレーション
・ アシュラバスター
・ アシュラフ
・ アシュラフ・イーナール
・ アシュラフ・カーイトバーイ
アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー
・ アシュラフ・ガニ
・ アシュラフ・ガニ・アフマドザイ
・ アシュラフ・ガニー
・ アシュラフ・ガニー・アフマドザイ
・ アシュラフ・シャーバーン
・ アシュラフ・トゥーマーンバーイ
・ アシュラフ・ヌーマン
・ アシュラフ・ハリール
・ アシュラフ・バルスバーイ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー : ウィキペディア日本語版
アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー

アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー(? - 1516年8月24日)は、ブルジー・マムルーク朝の第24代君主(在位:1501年 - 1516年8月24日)。
1501年に即位したガウリーは斜陽の途にあったマムルーク朝を再建するため、弱体化して役立たずになっていたマムルークに代わってアビード(黒人奴隷)やズール(ヤクザ)などを徴兵してマムルーク軍団からの脱却を図った〔マムルークは15世紀頃になると弱体化して君主(スルタン)から支給される給与で生活する都市生活者に成り下がっていた〕。また銃砲など新たな装備も行なったりして諸改革に着手した。
しかしマムルーク朝はすでに外圧に苦しめられていた。インド洋にはポルトガルサファーヴィー朝の進出が行なわれ、オスマン朝キリキアを支配下に置いてマムルーク領のシリア北部を脅かし出した。しかし財政的にも苦しかったマムルーク朝では有効な手立てを取れずにいた。
オスマン朝のセリム1世はマムルーク朝の衰退を見てシリア遠征を決意。ガウリーもこれを迎え撃つためシリアに進出した(マルジュ・ダービクの戦い)。兵力ではガウリーの方が優勢だったが〔マムルーク軍が8万、オスマン軍は7万〕、交戦中に味方の寝返りが起こって大敗〔ガウリーと不仲だった部下の裏切りと、新兵として雇った黒人奴隷らの報酬が安すぎて士気が低かった〕。ガウリーは敗走中に戦死した。
この戦いでマムルーク軍は7万の兵力を失うという致命的な大敗を喫し、マムルーク朝は翌年にセリム1世によって滅ぼされた。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.