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アジアテック(Asiatech)は、2001年と2002年にF1に参戦していたレーシングエンジンビルダー、アジア・モーター・テクノロジーズ・フランス (Asia Motor Technologies France) の商号。 日本の民間資本を元にジョン・ゲイノーとエンリケ・スカラブローニが設立、2000年シーズンの終わりに撤退したプジョーのF1エンジンプログラムを引き継いだ。その計画はトップレベルのヨーロッパのエンジン技術をアジアが習得し、アジアメインのF1チームを創設することであった。 同社はスタッフを170名から220名まで増やし、オリジナルシャシーの風洞モデルを開発、2001年はアロウズ、2002年はミナルディにエンジンを供給していたが、スポンサーからの資金が途絶えるとスタッフと設備をプジョーに返却、2002年シーズンの終わりと共に消滅した。 ==概要== 前身はプジョー社内のF1エンジン開発チーム。同社が2000年限りでF1から撤退することを発表すると、アジアテックは同社のF1エンジン開発部門の設備や人員をほぼそのまま買い取った。新たにテクニカルディレクターにフェラーリ・641/2などのデザイナーとして知られるエンリケ・スカラブローニを招き入れ、2003年より独自チームによるF1参戦を実現することを目標に、エンジン開発を続行した。 2001年はアロウズに対してV10エンジンを無償で供給し〔Asiatech Engines www.grandprix.com Retrieved 2 November 2007.〕 〔Asiatech engines Broken Arrow are Wound up, news.bbc.co.uk, Retrieved 20 july 2012.〕、2002年にはミナルディに供給した。 しかし元々ベースとなったプジョーエンジン自体戦闘力に乏しかった上、アジアテックとなってからも特に開発体制の強化は行われなかった。さらに、エンジンが供給されたアロウズ、ミナルディは共に弱小チームだったことも重なり、成績は低迷し2年間でわずか3ポイントを獲得するに留まった。 2002年シーズン、9つのサプライヤーがエンジンを供給した中、アジアテックの信頼性は4位でBMWと同率であった。ミナルディの14回のリタイアのうち、4回はエンジンが原因でよるものであった。同社はこのシーズン中にウィリアムズがディドコットに所有していた設計オフィスを買収、オリジナルシャシーを設計してアジアテック・エンジンのテストベッドに使用、2004年には参戦を予定していた〔Never Raced F1 Cars Retrieved 4th November 2007.〕。 アジアテックはエンジンをチームに対し無償で供給していたが、このように成績が低迷したことから、同社のバックについていたと見られるスポンサーは同社のプロジェクトに対する追加出資を拒否した。このため同社は独自チームでのF1参戦はおろかエンジンビルダーとしての活動継続も困難となり、2002年シーズン終了と共にF1から姿を消した〔Engines By Asiatech www.grandprix.com Retrieved 2 November 2007.〕。スタッフはプジョーに戻ったり、ルノーやその他のF1エンジンサプライヤーに転籍した。 2003年2月、アジアテックの資産はパリのオークションで売却された。資産の内容は18基のエンジン、シャシーダイナモ、様々な工作機械と測定機器であった〔Want To Buy A Third Hand Engine Company? Retrieved 4 November 2007.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アジアテック」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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