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アダム・イェヒイェ・ガダーン()は、アメリカ合衆国出身のイスラーム主義活動家〔アダム・イェヒイェ・ガダーン 正義への報酬(2015年8月14日閲覧)〕。アル=カーイダのスポークスマン〔Khatchadourian, Raffi (January 22, 2007). "Azzam The American: The making of an Al Qaeda homegrown". The New Yorker. Retrieved January 22, 2007.〕でメディア顧問〔Whitlock, Craig (September 15, 2007). "Converts To Islam Move Up In Cells : Arrests in Europe Illuminate Shift". The Washington Post. p. A10. Retrieved June 13, 2008.〕で、英語圏におけるアルカイダの代理人。ユダヤ系アメリカ人であり、生まれた時の姓名はアダム・パールマン。2004年から2006年にかけて、アル=カーイダから米国へのメッセージとされる複数のビデオに「アメリカ人アッザーム」()として登場した容疑で知られている。2004年、ガダーンはFBIの「テロリズムとの戦い」指名手配リストに載った〔ガダーンの指名手配書 、FBIの「テロリズムとの戦い」指名手配リスト、Internet Archive Wayback Machine, 2004年6月6日〕。2006年10月11日、ガダーンの名は「テロリズムとの戦い」指名手配リストから削除され、その代わりにFBIの「最重要テロリスト指名手配リスト」へ移った〔アメリカ人アルカーイダ構成員のガダーンが内乱罪の嫌疑を受ける 、ブルームバーグ、ロバート・シュミット記者の記事、2006年10月11日〕。同日、ガダーンはカリフォルニア中央地区連邦地方裁判所にて連邦大陪審から反逆罪(Treason)で起訴された。反逆罪で起訴されたアメリカ人としては、1952年に死刑が確定した川北対合衆国事件以来である〔アメリカ人アルカーイダ構成員が内乱罪で起訴される 、FOXニュース、2006年10月12日〕。 ==人物== ガダーンはフィル・ガダーンとジェニファー・ガダーンの息子として生まれた。父フィルは、あまり売れなかったが評判の高いサイケデリックアルバム"Relatively Clean Rivers"で知られるミュージシャンだった。父方の祖父カール・パールマンは高名な外科医で名誉毀損防止同盟の幹部であり、父方の祖母アグネス・ビーチはThe Chronicle Christian Newspaper紙の記者だった〔http://www.wargs.com/other/gadahn.html〕。アダムが生まれる前、父フィルはユダヤ教からキリスト教に改宗し、聖書の登場人物ギデオンに因んでガダーンと名乗るようになった。ガダーン家はカリフォルニア州ウィンチェスターの農場でヤギを育て、ハラールの戒律に沿って屠殺し、イスラム教徒相手の食料雑貨店に売る商売をしていた。アダムは1995年中期まで家庭で教育を受けていたが、16歳のとき祖父母と共にサンタアナへ転居し、学校に通い始めた。当時の友人たちは、世慣れぬアダムを「一匹狼」とも「パシリ」とも表現している〔Azzam The American: The making of an Al Qaeda homegrown 、ニューヨーカー、2007年1月22日〕 。 アダムはデスメタルのファンで、『ゼノサイド』という名のSF同人誌に音楽時評やイラストを発表していた。ヴァイル・レーベルから出た''Acts of the Unspeakable''のレビューで、彼はこう書いた。 ベイエリアカルテットが飛ばしてくれた。特にTortured Moans of Agony、Batter Acid Enema、Blackness Within、Skullpturesの4曲が最高だ…デスメタルの先駆者たちからの最高のリリースだ! そして、General SurgeryというバンドのEPのレビューではこう書いた。 これは基本的にスウェーデンのデスメタルの「スーパーグループ」だ。DismemberやAfflictedやCrematoryのメンバーがフィーチャリングされている。歌詞については、バックカバーに引用されている文句にうまくまとめてある。「人殺しは唯一の暇つぶしの手段だ」とね〔Bernhard, Brendan, ''White Muslims : From LA to New York ... to Jihad?,'' Melville House Publishing, Hoboken, New Jersey, 2006, p.54-5〕 1995年、17歳のとき、ガダーンはオレンジ郡のイスラム協会でイスラム教について学び始めた。ガダーンの学習グループは若い世代の原理主義者たちから構成されており、モスクの責任者のハイサム・「ダニー」・バンダクジを「ユダヤ人ダニー」と呼んで攻撃していた。バンダクジが西洋風の衣服を着て、ユダヤ人に対して過剰に友好的だったからである〔Bernhard, Brendan, ''White Muslims : From LA to New York ... to Jihad?,'' Melville House Publishing, Hoboken, New Jersey, 2006, p.55〕 1995年の暮れにガダーンはイスラム教へ改宗し、そして間もなく、自らの改宗体験に関するエッセイを南カリフォルニア大学のウェブサイトに投稿した。題名は「ムスリムになること」というものだった〔Gadahn, Adam Yahiye (1995). "Becoming Muslim ". University of Southern California.〕。アダムの両親によると、彼は1997年5月にかつての指導者であるハイサム・バンダクジを襲撃した容疑で逮捕され、有罪となり、2日間服役した。裁判所からは40時間の社会奉仕活動をも命じられていたがこれを怠ったため、再び逮捕収監されてもいる〔Azzam The American: The making of an Al Qaeda homegrown (Page 4) 、ニューヨーカー、2007年1月22日〕。 1998年、ガダーンはパキスタンに移住し、アフガン難民女性と結婚した。アメリカの家族とは断続的に連絡を保ち続けた〔Ross, Brian and Scott, David (9 November 2004). "American Al Qaeda Unmasked? ". ABC World News Tonight〕。 2003年、彼はパキスタンでハリド・シェイク・モハメドからメリーランド州での自爆テロに参加するよう誘われたが、「結婚したばかりで、妻が妊娠している」ことを理由に拒否した〔Azzam The American: The making of an Al Qaeda homegrown (Page 10) 、ニューヨーカー、2007年1月22日〕。 しかしながら、CIAによると「ガダーンは数回にわたってモハメドと一対一のブレインストーミングに参加した」ともいう〔Azzam The American: The making of an Al Qaeda homegrown (Page 4) 、ニューヨーカー、2007年1月22日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アダム・ガダーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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