翻訳と辞書
Words near each other
・ アダン
・ アダン (映画)
・ アダン (曖昧さ回避)
・ アダンク
・ アダングメ族
・ アダングメ語
・ アダンソンハエトリ
・ アダンソンハコヨコクビガメ
・ アダンソン分類法
・ アダン・ド・クラポンヌ
アダン・ド・ラ・アル
・ アダン・ムニョス
・ アダン・モハメド・ヌール・マドベ
・ アダ・E・ヨナス
・ アダ・ジョーンズ
・ アダ・ツィガンリヤ
・ アダ・ベレス
・ アダ・マウロ
・ アダ・ヨナス
・ アダ・ヨナト


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アダン・ド・ラ・アル : ウィキペディア日本語版
アダン・ド・ラ・アル

アダン・ド・ラ・アル (Adam (Adan) de la Halle 1240年頃 - 1287/1288/1304年頃)は
フランス中世後期を代表する作曲家の一人で、最初のオペレッタの作者、最後のトルヴェールもしくはミンストレル、そしてアルス・アンティクアの多声音楽の代表的な作曲者の一人とされる。
アラスのアダン(Adam d'Arras)の他、アダン・ル・ボシュ(Adam le Bossu)あるいは アラスのボシュ(Bossu d'Arras)という渾名が知られている〔「Bossu」は佝僂の意。慣用語として「腹を抱えて笑う」意味の言い回しにも用いられる。〕。
== 生涯 ==
毛織物工業とその貿易で裕福なフランス北部アルトワ地方(現在のパ=ド=カレー県)の町アラスの役人の家庭に生まれる。渾名から何らかの身体的なハンディキャップがあった事が示唆されるが、アダンは自身の作品『シチリアの王 Le Roi de Sicile』の献呈の辞において「見ての通りそういうことはないのです」と述べている。高度な教育を受ける事が出来たらしく、1262年頃パリの大学で聖職者の教育を受けたという説があり、この説が正しければこの大学を中心として広まっていたアルス・アンティクアの複雑なポリフォニー音楽に直接触れる機会を得た可能性がある。教育を受けた後はアラスに戻って来たようで、1270年代からはアラスの領主ロベール2世にミンストレルとして仕えていたらしい。またアラスでは裕福な市民階級が多かったため大きな歌謡組合(ピュイ)があったが、そこに属して音楽の研鑽を受けていたともされる。彼の多くの作品はそのテキストに使われている言葉の訛りからこのアラスで作られたようである。その後領主と共に1276年もしくは1277年にパリへ移動し、さらに1283年にナポリシャルル・ダンジューの宮廷へ向かった。1287年もしくは1288年頃にこの地で亡くなったとする説が有力であるが、1304年頃にアラスで亡くなったという説もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アダン・ド・ラ・アル」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.