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アナトール・リトヴァク (Anatole Litvak, 1902年5月10日 - 1974年12月15日) は、ロシア出身の映画監督。ドイツ、フランス、イギリス、アメリカで活動した。日本ではリトバーク、リトヴァークとも表記される。 == 来歴 == 出生名アナトリー・ミハイロヴィチ・リトヴァク(Анатолий Михайлович Литвак)としてロシア帝国 (現ウクライナ)のキエフで生まれた。父親はユダヤ人の銀行頭取。14歳の時にサンクトペテルブルクに移り、前衛劇場で俳優としてデビューした。その後、同地の大学で哲学と演技を学び、劇団で俳優兼助手となった。 1923年、ノルドキノ・スタジオに入り、数本の作品で脚本や美術を担当。同時に初の短編『''Tatiana''』を製作したが、同年にドイツへと渡った。 ドイツではゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督の『喜びなき街』(1925年)の編集やアレキサンダー・ボルコフの助監督を務めた。その後、1930年に長編『''Dolly macht Karriere ''』で映画監督としてデビュー。以後、『女人禁制』(1931年)、『今宵こそは』(1932年)を発表したが、1933年にナチス政権が誕生すると、リトヴァクはフランスへと移住。同地で『最期の戦闘機』(1935年)や『うたかたの戀』(1936年)などを発表した。 1937年にアメリカへと渡り、ハリウッドに進出。数本の犯罪映画や『黄昏』(1938年や『凡てこの世も天国も』(1940年)といったロマンス映画を発表。1942年から1945年までは『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(1944年)などのプロパガンダ映画『''Why We Fight''』シリーズをフランク・キャプラと共同で監督した。戦後、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章が授与された。 その後もアメリカに留まり、アカデミー監督賞にノミネートされた『蛇の穴』(1948年)やイングリッド・バーグマンを起用した『追想』(1956年)などの作品を発表した。1960年代からは再びヨーロッパに移り、バーグマンとイヴ・モンタンを起用した『さよならをもう一度』(1961年)や『将軍たちの夜』(1967年)などの作品を発表した。 1974年12月15日、フランスのヌイイ=シュル=セーヌで死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アナトール・リトヴァク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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