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アハルカラキ()は、グルジア南部の都市。2002年の時点で、人口の94パーセントをアルメニア人が占める。 == 歴史 == 現在の街の名はグルジア語で「新しい」を意味する「アハル」 と「街」を意味する「カラキ」 からなるが、18世紀の旅行者、の旅行記においては、この街は「アハルカタク」や「ノル・カタク」の名でも言及されている(アルメニア語で「ノル」 は「新しい」、「カタク」は「街」を意味する)。 アハルカラキは、9世紀から10世紀頃に現在の場所とは異なる位置に建設され、1064年に現在の位置で都市とされた〔。1066年にはセルジューク朝の侵略によって街は破壊された。その後、11世紀にの治下に収まるまでは、街はグルジア人とアルメニア人による両属状態となっていた。16世紀末にオスマン帝国の領域となり〔、の中心都市「アフルケレク」となった。 第三次露土戦争中の1811年にはロシア帝国の軍勢が街を占領した〔。しかし、翌1812年のによって、街は再度オスマン領へ戻された〔。その後、1828年に将軍によって再度占領され、翌1829年にロシア帝国領とされた〔。同年には、街の主な人口はムスリム化したグルジア人であった〔。しかし、併合後に街のムスリムはオスマン領へ脱出し、代わってエルズルムやからのアルメニア人難民が、街に定住するようになった〔。および自治体サイトによれば、この人口移動はロシア政府による意図的なものとされている。 ソ連時代には、ボルジョミ、アハルツィヘ、レニナカンと高速道路で結ばれており、主な産業はチーズ・レモネード・澱粉・木材の製造や醸造、農業となっていた〔。ソ連崩壊後も長らく駐留ロシア軍の基地がおかれていたが、2007年6月、ロシア軍は基地をグルジア側に引き渡して撤兵した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アハルカラキ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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