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テグデル(Tegüder Aḥmad تكودار احمد 生年 ? - 1284年)は、イルハン朝の第3代君主(在位1282年-1284年)。 初代君主・フレグの7男。フレグの第3正妃であったコンギラト部族出身のクトゥイ・ハトゥンとの息子であり、同母兄に4男のテクシンがいる。フレグ家の王族でムスリムになったことが確認できる最初の人物で、テグデル・オグルやアフマド・テグデル、アフマド・ハン Aḥmad khān などと称された。 == 生涯 == === 即位以前 === テグデルは1265年にフレグ・ハンが没した時、モンゴル本土からアバカの生母イスンジン・ハトゥンがアバカのいるイラン方面へ到着したとき、自らの母であるクトゥイ・ハトゥンや兄テクシンや甥ジュシュケブ、キンシュウといった兄弟・親族達とともにこれに付き従ってアバカの宮廷に迎えられた。 1282年4月にフレグ・ハンの長男であったアバカが没した後、イルハン朝内部では後継者を巡りクリルタイで対立が起きた。テグデルの異母弟であるアジャイ、コンクルタイ、フラチュらやフレグの次男ジョムクルの遺児であるジュシュケブ、キンシュウといった王族たち、および彼らの幕僚たちはテグデルの推戴を望んだが、一方でアバカの長男であるアルグンを推すアルクやブカといった譜代の部将たちなどのアバカ家のグループ、さらにフレグの第四正妃であるオルジェイ・ハトゥンは自子でフレグの十一男モンケ・テムルを推すなど、三つのグループに別れて後継者の選定は紛糾した。 しかし、モンケ・テムルがアバカの没後一ヶ月を待たずに急死する。このためオルジェイ・ハトゥンはアルグンの推戴に賛意を表したが、ヤサの規定では君主位の継承は宗族の年長者によるべきであるという意見もはなはだ根強かった。これは特に先代のアバカの即位の例を意識したものであった。フレグがモンゴル本土のモンケの許に残し、当地のオルドの管理を任せていた次男ジョムクルは1264年に既に没しており、3男ヨシムト、4男テクシン、5男タラガイ、6男トブシンらも没していた。結局アルグン陣営で譲歩する動きがあり、モンケ・テムルの死の10日後にあたる1282年5月6日にクリルタイの全会一致をもってテグデルは即位することとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テグデル」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tekuder 」があります。 スポンサード リンク
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