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アフリカーナー()は、アフリカ南部に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカに入植した人々が合流して形成された民族集団である。現在の南アフリカ共和国やナミビアに多く住んでいる。 言語はオランダ語を基礎にしてフランス語、マレー語、現地の言語等を融合して形成されたゲルマン系言語であるアフリカーンス語を母語とする。かつてはブール人(Boer)と呼ばれた(「ブール」〔Boer〕とはオランダ語およびアフリカーンス語で農民の意。"Boer"の英語読みに基づいてボーア人とも表記される)。主な宗教は改革派(カルヴァン派)に属するオランダ改革派教会である。 アパルトヘイト時代の厳密な定義では、オランダ系(同化したユグノーなども含まれる)であること、アフリカーンス語を第一言語とすること、オランダ改革派教会の信徒であること、この三つをみたすことが「アフリカーナー」の条件であった。 == 歴史 == === オランダ植民地時代(1652年 - 1795年) === 17世紀半ばの1652年にオランダ人ヤン・ファン・リーベックらが補給港建設の為にアフリカ南部沿岸部へ入植し、ケープタウンを建設、オランダ東インド会社(VOC)によるケープ植民地が成立した。彼らがアフリカーナーの源流といえる。ケープ植民地総督シモン・ファン・デル・ステルは1679年にステレンボッシュ市を築き、後のアフリカーナーの内陸部進出の拠点となった。このオランダ入植者の集団にはカトリックが主流のフランス王国で公民扱いされていなかった新教徒のユグノーなど、他のヨーロッパ諸国からのプロテスタント移民も合流する形で流入し、後に民族集団としてアフリカーナー(ブール人)と呼ばれることになる人々の前身が形成されていった。以上の理由より、アフリカーナーの出身国にはオランダ、フランス、ドイツの他、ベルギー、スカンディナヴィア諸国がある。この中でもフランス出身のユグノーは、現在もケープ地方に伝わるワイン(南アフリカ共和国のワイン)製造の技術をもたらした〔峯(1996:61)〕。また、こうして形成されたオランダ系集団は、インドネシア、マレーシア、インド、スリランカ、モザンビーク、マダガスカルなどの出身のアジア系、アフリカ系の人々を奴隷として使役し、先住民のサン人(当時の呼称ではブッシュマン)から家畜と土地を奪って従僕とした〔峯(1996:61-62)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アフリカーナー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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