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アフリカ属州(Africa Province)は、ローマ帝国の属州である。領域の概要は、現代のチュニジア北部と地中海沿岸のリビア西部からなる。かつてのカルタゴの支配領域に比べると狭い領域になる。アフリカ属州の名は、ローマ帝国の後に同じ領域を支配したアラブ人にもイフリーキヤ(Ifriqiya)として残り、また、後世のアフリカ大陸の名前の由来ともなった。 ==歴史== 古くは、アフリカを始め、ハドルメントゥム(:en:Hadrumetum、現チュニジアの都市スース)やヒッポレギウス(:en:Hippo_Regius、現アルジェリアの都市アンナバ)など主要な都市は、古代都市国家カルタゴの支配下にあった。 紀元前146年、第3次ポエニ戦争で共和政ローマがカルタゴに勝利して、過去2回の戦争で残っていたカルタゴ領をローマに併合し、アフリカはローマの属州となった。そしてローマは、旧カルタゴ領の中で最も肥沃な土地を選んでプロコンスルが統治する最初の植民地アフリカ・プロコンスラリス(Africa Proconsularis、または Africa Vetus)を築き、また、州都はウティカ(Utica)に定めた。マシニッサが治めるヌミディア王国は、ローマの保護国(クリエンテス)として残った。この頃のローマが考えるアフリカの役割は単純で、シチリアのローマから遠い方の側に抵抗勢力が育つのを防ぐことであった。 紀元前118年、ヌミディアの王子ユグルタは、他の小王国を統合して領域を再編しようとした。しかし、ユグルタが死ぬと、彼が支配下においた領域の多くはローマ保護国の王ボックス1世(:en:Bocchus_I)の支配下に収まり、アフリカのローマ化は確固たるものとなった。その後、ユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウスがローマの覇権を争った内乱を経て、ヌミディア王国が断絶し、アフリカ属州の西隣に新たにヌミディア属州が設置された。 初代ローマ皇帝アウグストゥスは、いくつかの政治的な改革と属州制度の改革を実施した。後のカリグラ帝も改革を続け、クラウディウス帝によって公式なローマ属州の領域分割は完了した。アフリカ属州は元老院属州であった。ディオクレティアヌス帝の行政改革により、アフリカ属州は北部のアフリカ・ゼウギタナ(Africa Zeugitana、プロコンスルが統治)と南部のアフリカ・ビュザケナ(Africa Byzacena)とに分割された。 5世紀のゲルマン民族の大移動まで、北アフリカはローマ帝国の支配下として続いた。429年、ゲルマン民族の一部族であるヴァンダル族がスペインからアフリカ北部に侵入し、シチリア、コルシカ、サルデーニャおよびバレアレス諸島まで侵略して、439年にはヴァンダル王国を建設した。ヴァンダル族は王国を軍事統制し、ローマ系アフリカ人を厳しく区別して抑圧し、また、カトリック信仰を迫害した。しかし5世紀の終わりにはヴァンダル王国は勢力を失い、領土のほとんどをマウリ族や他の砂漠地帯の部族に奪われた。 533年、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世は、ヴァンダル王国の内紛を口実に、アフリカの覇権を取り戻そうと将軍ベリサリウスの軍団を派遣した。ベリサリウスは短期間の戦闘でヴァンダル王国を破り、カルタゴに入って、属州におけるローマの統治を回復した。ローマは、砂漠地帯に暮らすベルベル人部族の攻撃をしのぎ、大規模な砦のネットワークを築いて再び内陸にも勢力を伸ばした。 皇帝マウリキウスのとき、北アフリカの属州は、スペインにあるローマ属州と共に、アフリカ総督の監督下におかれるアフリカ総督領(:en:Exarchate_of_Africa)になった。この総督領は繁栄した。610年に暴君といわれる皇帝フォカスが処刑され、彼を倒したヘラクレイオスが新しい皇帝となったが、このヘラクレイオスの反乱はアフリカから起こっている。ヘラクレイオスは、短期間ではあるがカルタゴに戻って、首都もコンスタンティノープルからカルタゴに移そうとしたことがある。この事実からも、この時期のアフリカが繁栄し安定していたことがわかる。 640年以降、アフリカはイスラム教徒による激しい侵略にさらされた。しばらくは、侵略されるときもあったが、再び逆転して持ちこたえていた。しかし、698年にエジプトを拠点とするイスラム軍が総督府カルタゴを陥落させ、これによって北アフリカのローマ支配およびキリスト教支配は終わりを告げた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アフリカ属州」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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