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アブサマト・マサリエフ(1933年4月10日 - 2004年8月1日)は、キルギスタンの政治家。オシュ州フルンゼ地区アルイシュ村出身。 ソ連共産党員(1986年 - 1991年)、ソ連共産党中央委員会政治局員(1990年 - 1991年)。ソ連最高会議代議員(第10期と第11期)。ソ連人民代議員(1989年 - 1991年)。第12期キルギスタン最高会議代議員(1990年 - 1991年)。 *1956年-1958年 - 「キズル・キヤウーゴリ」鉱山管理所区域長補佐、鉱山副主任技師 *1958年-1961年 - 「キルギスウーゴリ」の主任技師補佐 *1961年-1962年 - キルギス共産党オシュ州委員会教官 *1962年-1964年 - アルマ・アタ高等党学校聴講生 *1964年-1965年 - キルギス・ソビエト社会主義共和国党・国家監督委員会監察官、オシュ州党・国家監督委員会副議長 *1965年-1966年 - キルギス人民会議オシュ州副議長 *1966年-1968年 - キルギス共産党オシュ州委員会課主任 *1968年-1969年 - キルギス共産党中央委員会産業輸送課副主任 *1969年-1971年 - キルギス共産党タシュ・クムイル市地区委員会第一書記 *1971年-1972年 - キルギス共産党中央委員会産業輸送課主任 *1972年-1974年 - フルンゼ市執行委員会議長 *1974年-1979年 - キルギス共産党中央委員会書記 *1979年-1985年 - キルギス共産党イシクコル州委員会第一書記 *1985年 - ソ連共産党監察官 *1985年11月-1991年4月 - キルギス共産党中央委員会第一書記 *1990年4月-12月 - キルギスタン最高会議議長 1990年10月25日、大統領選挙に敗北。1991年4月から8月、ソ連共産党イデオロギー課顧問。1992年9月から、キルギスタン共産党党首。 1993年1月から1996年6月まで、キルギス共和国政府附属産業労働安全実施・鉱山監督国家委員会議長。1994年から、I.ラズザコフ財団総裁。 1995年4月から、キルギス共和国ジョゴルク・ケネシュ (キルギス議会) 代議員、国家制度・適法性・憲法立法問題委員会委員長。1995年12月24日、大統領選挙において、アスカル・アカエフに敗北(24.4%を得票)。 2000年4月、議会代議員に再選されたが、議会議長選に敗北。2000年から2001年、議会で「エルコムソツ」会派を率いた。 2001年10月、キルギスタン共産党幹部会において、副議長兼書記に選出。 == パーソナル == キズル・キヤ鉱山専門学校(1953年)、モスクワ鉱山大学(1956年)、アルマ・アタ高等党学校(1964年)卒業。鉱山技師。十月革命勲章、労働赤旗勲章(2度)等を受賞。 妻帯、2男2女、6人の孫を有する。長男のイスハークは、議会代議員で、2004年12月からキルギスタン共産党中央執行委員会第一副議長。 著書に、「人生のページと貧しい我が祖国」(1993年)がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アブサマト・マサリエフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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