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アブドゥッラー・イブン・アリー(Abdallah ibn Ali ibn Abdallah ibn al-Abbas、712年頃 - 764年)は、アッバース朝の王族。8世紀に起きたアッバース革命を成功に導く主導的な役割を果たした。 アッバース家の祖であるアッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの孫にあたり、アリー・ブン・アブドゥッラーを父に持つ。アッバース朝の初代カリフ・サッファーフ、サッファーフの跡を継いでカリフとなったマンスールの叔父にあたる。 アッバース朝の樹立後にアブドゥッラーはシリアの総督に任命され、シリアにアッバース家の権威を行き渡らせた。ウマイヤ家の人間に過酷な弾圧を加え、反アッバース朝の反乱を抑止した。754年に甥のサッファーフが没した後、カリフの地位を継いだサッファーフの兄マンスールに対してカリフの地位を要求したが敗北する。アブドゥッラーは投獄された後に処刑され、没時の年齢は52歳に達していたと伝えられている。 == 生涯 == === アッバース革命での活躍 === 749年初頭、ホラーサーン地方のアブー・ムスリムが指導する反ウマイヤ朝の蜂起が東方で成功を収め、アブー・ムスリムが率いるホラーサーン軍はペルシアからイラクの国境地帯に向かって西進した。749年10月、イラクのクーファにおいてアブー・ムスリムらホラーサーン軍の支持を受けたアッバース家のサッファーフがアリー家の人間を抑えてカリフに推戴される。アッバース朝の支配をより強固にするため、サッファーフは一族の人間を軍隊の指揮官に任命した。サッファーフの兄アブー・ジャアファル(後のカリフ・マンスール)はワーシト包囲の援軍の指揮官を務め、アブドゥッラーはウマイヤ朝のカリフ・マルワーン2世の勢力下にあるジャズィーラ地方に派遣される。 750年1月、チグリス川の支流である大ザーブ川でアブドゥッラーはマルワーン2世と対陣するが、アブドゥッラーの軍はマルワーン2世の軍よりもはるかに兵数が少なかった。当初マルワーン2世から講和の使者が送られるが、アブドゥッラーは和平の意思を疑い、マルワーン2世の縁者の一人がアッバース側に攻撃を仕掛けたために戦闘が開始される。士気の低いウマイヤ軍に対して、アブドゥッラーの軍は奮戦し、勝利を収める(ザーブ川の戦い)。750年4月にアブドゥッラーは包囲の末にウマイヤ朝の首都ダマスカスを占領し、マルワーン2世はエジプトに逃走する〔フィリップ.K.ヒッティ『アラブの歴史』(岩永博訳, 講談社学術文庫, 講談社, 1982年12月)、pp.542-543〕。ダマスカス、キンナスリーンにあるウマイヤ朝のカリフの墓は信仰心の篤いウマル2世のものを除いて掘り返され、遺体には冒涜が加えられた〔。アブドゥッラーの兄弟サーリフはエジプトに逃げ込んだマルワーン2世を追跡し、マルワーン2世を捕殺する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アブドゥッラー・イブン・アリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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