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アブラハム・メンデルスゾーン : ウィキペディア日本語版
アブラハム・メンデルスゾーン

アブラハム・エルンスト・メンデルスゾーン・バルトルディAbraham Ernst Mendelssohn Bartholdy 1776年12月10日 - 1835年11月19日ジューイッシュ・エンサイクロペディア, ''Mendelssohn Family'' 〕)は、 ドイツ系ユダヤ人銀行家フィランソロピストフェリックス・メンデルスゾーンファニー・メンデルスゾーンの父である。
== 生涯 ==

=== 青年期 ===
アブラハム・メンデルスゾーンとしてベルリンに生まれた。父は哲学者モーゼス・メンデルスゾーンである。
モーゼスが1786年に他界した時には、メンデルスゾーン一家は名のある裕福な家庭となっていた。ドイツ系ユダヤ人は、ユダヤの文化と同時にドイツの文化にも参画しなければならないという父モーゼスの考えに従い、アブラハムは自由主義的な教育を受けた。1792年にはユダヤ自由主義組織「''Gesellschaft der Freunde''」の創立メンバーとなり、また1973年には合唱団ベルリン・ジングアカデミー〔訳注:現在も続く合唱団。フェリックスが大バッハの「マタイ受難曲」を復活演奏した際に、合唱を受け持ったことで歴史に名を残す。(Berliner Singakademie)〕の設立にも関わっている。1796年、〔訳注:1723年生まれ、プロイセンフリードリヒ2世フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に仕えた宮廷ユダヤ人。〕の孫娘で、後に伴侶となるがアカデミーに入団したが、2人はおそらくそれ以前に出会っていたものと思われる。
1797年、アブラハムは兄のヨーゼフの命に従い、銀行経営を学びにパリへと赴いた。ヨーゼフはダニエル・イツィッヒの孫であるモーゼス・フリートランダー(Moses Friedlander)と共同で、メンデルスゾーン・フリートランダー金融会社を設立していた。フランスでの生活はアブラハムには魅力のないものだった。1804年、アブラハムはレアとハンブルクで結婚し、その地で一家の銀行の事務所を運営した。この時期のどこかの時点で、彼はレアの知り合いであった〔訳注:1773年生まれ、バルト・ドイツ人楽譜蒐集家、私的な音楽学者。〕と出会っている。ペルヒャウはC.P.E.バッハの遺言実行人であり、その多くの草稿をおばで音楽家のザラ・レヴィ(Sara Levy)に譲ったが、レヴィがこれらをジングアカデミーに寄贈している。
1804年、アブラハムは兄ヨーゼフの銀行会社の協力者となった。この協力関係は1822年まで続くことになる。のちにMendelssohn & Co.として知られるようになるこの私的な銀行は、ベルリンのイェーゲルシュトラーセ(Jägerstraße)に1815年から1938年まで営業したが、ナチスの圧力を受けて消滅させられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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