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アブリットゥスの戦い[あぶりっとぅすのたたかい]
アブリットゥスの戦い(イタリア語:''Battaglia di Abrittus'')は、251年に行われたローマ帝国とゴート族を中心とするゲルマニア人(以下はゴート軍)との戦いである。最終的にゴート軍が勝利を収め、ローマは皇帝デキウスとその共同皇帝ヘレンニウス・エトルスクスが戦死するという大敗を喫した。259年のサーサーン朝とのエデッサの戦いと並んでローマ帝国の国力低下を示す戦いとなった。フォルム・テレブロニィの戦い(Forum Terebronii)とも称される。 == 背景 == デキウスがローマ皇帝へ即位した249年頃より、ゴート族を中心としたゲルマニア人はドナウ川流域のローマ属州であるダキア、モエシア(モエシア・スペリオル、モエシア・インフェリオル)への侵攻を開始した。 このドナウ川流域のローマ属州への侵攻を招いた理由として2つあり、1つは238年より行っていたゲルマニア人に対する補助金を、デキウスの前任者であったピリップス・アラブスが打ち切ったことにゲルマニア人が反発したこと、もう1つはそのピリップスから帝位を奪い取るために当時モエシア地方の属州総督であったデキウスが、これら部族を抑える役割を持っていた軍隊を率いてローマへ進軍したことにより、ドナウ川流域への抑えが無くなったことである。 250年、カルピ人(en)がダキア、モエシア属州へと侵入した。それと同時期にゴート族の王・クニウァ(en)が率いるゲルマニア人の軍勢(以下、ゴート軍)がローマ国境を侵犯した。侵略軍はゴート族が中心となり、軍勢を率いていたクニウァはゴート系の名前である如くゴート族出身であったが、軍勢にはゲルマニア人系やサルマティア系の各部族(バスタルナエ族(en)、Taifals、およびHasdingian Vandals)が加わっていたと考えられる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アブリットゥスの戦い」の詳細全文を読む
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