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アブル=ガーズィー : ウィキペディア日本語版
アブル=ガーズィー
アブル=ガーズィー(、1603年 - 1663年3月〔セミョノフ「チムール以降のウズベキスタン史」『アイハヌム 2009』、163頁〕)は、ヒヴァ・ハン国の15代目の君主(ハン)である(在位:1643年 - 1663年)。12代目のハン・アラブ・ムハンマドの子にあたる。
== 生涯 ==
幼少期を首都のクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)の宮廷で過ごした。成長後、カースや旧ウルゲンチの知事を務めた〔久保「アブル・ガーズィー」『岩波イスラーム辞典』、62頁〕。
1621年に父のアラブ・ムハンマドが殺害された後、兄のイスファンディヤールと共に反乱を鎮圧するが、やがて兄と不仲になり国外に脱した〔本田「アブル・ガージー・バハドゥル・ハン」『アジア歴史事典』1巻、73頁〕〔江上『中央アジア史』、511頁〕。ジャーン朝ブハラ・ハン国の支配下にあったサマルカンドに逃れ、1626年カザフ・ハン国の支配下にあったタシュケントに移り、同地で2年を過ごした〔堀川「アブル・ガーズィー」『中央ユーラシアを知る事典』、20頁〕。1629年よりイランサファヴィー朝に送られ、エスファハーンに約10年滞在した〔。イランから脱出した後にオイラト(カルムィク)の宮廷を訪れ、この地でアブル=ガーズィーはモンゴルの伝承を学んだ〔〔。
1643年、イスファンディヤールが没した後にハンに擁立される。1645年にアブル=ガーズィーはトルクメン人を虐殺し〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、247頁〕、ウズベク出身の軍事貴族(アミール)を登用して国内を安定させる〔堀川「民族社会の形成」『中央アジア史』、169-170頁〕。同年、ヒヴァの南に現在のウルゲンチを建設した。
ロシア帝国などの近隣の国家と通交し、その一方でトルクメンやジュンガルなどの遊牧勢力を攻撃した。1655年からは7度にわたってブハラのジャーン朝に遠征する。1663年に息子のアヌーシャに譲位し、同年に没した〔。
アブル=ガーズィーの墓石は、ヒヴァイチャン・カラ内のパフラワーン・マフムード廟に置かれている〔『シルクロード事典』(前嶋信次、加藤九祚共編、芙蓉書房、1975年1月)、266-267頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アブル=ガーズィー」の詳細全文を読む



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