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アブー・アイユーブ・アル=マスリー()は、イラクで活動するジハード主義組織ムジャーヒディーン評議会の指導者で、同国のサラフィー・ジハード主義組織統一機構ISILの戦争大臣(実質的指導者)であった。 別名はアブー・ハムザ・アル=ムハージル()。 == 経歴 == 1968年、エジプトに生まれる。1980年代に初等教育を受けた後、1982年に、当時エジプトでテロ活動を繰り返していたジハード団に加入し、そこでアイマン・ザワーヒリーと出会う。1980年代、ソ連軍と戦うため、アフガニスタンに向かったとされる。 マスリーの出生や経歴には不明な点も多い。当時、マスリーはパキスタンとアフガニスタンの国境を往復して、対ソ戦に参加していたため、アブー・ジハード、ユーセフ・ハッダード、ハビーブ・ハッダード等の複数の偽名を使用していたと思われる。 アフガンでのマスリーの役割は、主にアラブ諸国からやってきたムジャーヒディーンをナンガルハール州のFarm-e-Charにある軍事キャンプで訓練・指導し、アラブ兵をリクルートすることであった。現地では、グルブッディーン・ヘクマティヤールやアブドゥル・ラスル・サイヤフといった他のムジャーヒディーン指導者とも面識を持った。また、「イラクの聖戦アル=カーイダ組織」の創設者となるアブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィーともアフガンで知り合ったとされ、マスリーはザルカーウィーに命じられて爆弾製造技術を取得したと言われる。 ソ連が撤退した後も、マスリーは他のメンバーと共にアフガンに留まり続けたが、Farm-e-Charにあったキャンプは閉鎖され、新たにジャラーラーバード郊外の丘地にあるDaruntaに軍事キャンプを開設した。このキャンプは、2001年の米軍主導のアフガン空爆で爆撃の標的となった。 1993年にナンガルハール州で起きた国連職員4人が殺害された襲撃事件にも、マスリーが関与したとされる。マスリーの狙いは、西側の人間をアフガンから追い出すことであった。パキスタンのペシャーワルで語ったところでは、ジハードをパレスチナ、チェチェン、カシミール、イスラーム諸国にも拡大すべきだ述べたという。 1998年に、イエメン人の女性と結婚。3人の子供を設ける。この時、マスリーはユースフ・ハッダード・ラビーブ( Yussef Haddad Labib)という偽名を用い、教師としてイエメンに入国していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アブー・アイユーブ・アル=マスリー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Abu Ayyub al-Masri 」があります。 スポンサード リンク
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