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アプヴェーア(、「防御」の意)はドイツ軍において1921年から1944年まで存在した諜報活動機関である。アプヴェールともカナ表記される。1938年2月4日以降は、Amt Ausland/Abwehr im Oberkommando der Wehrmacht(国防軍情報部海外電信調査課/外国課)となった。歴代部長の中で、ヴィルヘルム・カナリス提督はナチスに面従腹背の姿勢を取っていたことで、特に有名(詳細は後述)。 アプヴェーアは第1次世界大戦後、連合軍に譲歩するために諜報活動は防御のみにするという前提で設立された。実際には、アプヴェーアは防諜を意味しているその名称にもかかわらず、情報収集だけでなく、特に色々な場所から寄せられる生の情報を集め、ヒューミントを行った。情報部の部長は直接、国防軍最高司令部へ直接報告を行っていた。 ==初期== アプヴェーアは第一次世界大戦後、ドイツがドイツ国軍(ヴァイマル共和国軍)を設立した1921年に設立された。初代部長は第1次世界大戦でドイツ帝国軍情報部長ヴァルター・ニコライ(:de:Walter Nicolai (Geheimdienstoffizier))大佐の代理を務めたフリードリッヒ・ゲンプ(:de:Friedrich Gempp)少佐。初期の組織では事務職を合わせて、3人の新任、7人の前任者であり、3つのセクションで運営されていた。 *第I部-偵察 *第II部-暗号および通信 *第III部-防諜 1928年、ドイツ海軍の情報部がアプヴェーアに統合された。 1930年代、ナチスが台頭してくると、国防省は再編成され、1932年6月7日、陸軍将校が多く配置されていたにもかかわらず、海軍大佐コンラート・パッツィヒ(:de:Conrad Patzig)が情報部長に任命された。これは、当時の情報部は規模・重要性が小さかった為に、野心的な将校に人気がなかったことに加え、海軍士官は海外経験が多く、海外事情に強いということが要因と言われている。何はともあれ、全3部の活動は、独自の諜報部員を成長させることになった。 後にポーランド国境におけるアプヴェーアが主導した航空機による調査飛行のために、パッツィヒは親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと対立した。国防軍首脳はこの飛行計画のために、ポーランドへの進行作戦が漏れることを恐れていたのである。その結果、パッツィヒは1935年1月、ポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー の艦長へ異動した(後に、海軍人事担当となる)。後任の部長はヴィルヘルム・カナリス海軍大佐。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アプヴェーア」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Abwehr 」があります。 スポンサード リンク
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