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アヘンチンキ (laudanum、opium tincture、阿片丁畿〔おくすり博物館 内服ワクチン 〕) はアヘン末をエタノールに浸出させたものである。アヘンのアルカロイドのほぼすべてを含んでおり、その中にはモルヒネやコデインも含まれる。モルヒネが高い濃度で含まれているため、アヘンチンキは歴史的に様々な病気の治療に使われたが、主な用法は鎮痛と咳止めだった。20世紀初頭まで、アヘンチンキは処方箋なしで買える場合もあり、多くの売薬の構成物質であったが、常習性が強いため、現在では世界の多くの地域で厳しく制限され、管理されている。現在では一般的に下痢の治療や、ヘロインや他のオピオイドの常習癖がある母親から生まれた子供の、を和らげるために用いられる。 一部のヨーロッパ文化人もこれを愛用したといわれる。中国をはじめとするアジアでの、喫煙によるアヘン摂取と違い、アヘンチンキは腸を経由するため、常習性はあったものの、廃人となるようなことはそう多くなかった。 英語圏ではローダナムとも呼ばれるが、現在の医学ではアヘンチンキの名称を用いることが多い。ローダナムという名前を与えたのはパラケルススで、その後時を経るにしたがって何種類かの処方のローダナムが誕生した。 == 歴史 == 16世紀に、スイスのドイツ語圏の錬金術師パラケルススが、アヘンのアルカロイドが、水よりもアルコールの方によく溶けることを発見した。アヘンを様々な方法で調合して試してみたところ、パラケルススは特定のチンキにアヘンを混ぜたものが、鎮痛に大きな効果があることに気付いた。パラケルススはこの薬剤をローダナムと呼んだ、これはラテン語の「ローダレ」、称賛するという言葉から来ている 。実のところ、ローダナムはアヘンとアルコールの混成物ならどのような調剤のものでもそう呼ばれた。パラケルススの調合したローダナムは、その後の17世紀に発明されたものとはかなり異なった基準で、しかも17世紀のものよりも優れていた。パラケルススのものはアヘン、砕いた真珠、麝香、琥珀、その他の物質が交ぜてあった 。ある調査によれば、1618年に出版された''London Pharmacoepoeia'' には、アヘンでの丸薬の製法が付記されており、サフラン、ビーバー香、竜涎香、麝香、ナツメグを混ぜるとある〔“''In the Arms of Morpheus: The Tragic History of Laudanum, Morphine, and Patent Medicines''”, by Barbara Hodgson. Buffalo, New York, USA. Firefly Books, 2001, page 45.〕。 アヘンチンキの存在は1660年代まであまり知られていなかった。イングランドの医師が独自のアヘンチンキを調合してやはりローダナムと名付けたが、パラケルススのものとは実質的に異なっていた。1676年、シデナムは独創性に富む著書''Medical Observations Concerning the History and Cure of Acute Diseases''を発表し、その中で彼の調合したアヘンチンキを勧め、さまざまな病気への治療に用いるよう主張した〔。18世紀には、アヘンとローダナムの薬品としての特性は広く知られるところとなり、ジョン・ジョーンズやジョン・ブラウン、ジョージ・ヤングと言った医師たち、ヤングの表した包括的な医学書である''Treatise on Opium''ではローダナムの効能をたたえており、慢性または軽症の病気の場合には、実際に治療に用いるように勧めている 。アヘン、そして1820年以降はモルヒネもあらゆる物、たとえば水銀、大麻、カイエンヌペッパー、エーテル、クロロフォルム、ベラドンナ、ウイスキー、ワインそしてブランデーとまで混合された〔“''In the Arms of Morpheus: The Tragic History of Laudanum, Morphine, and Patent Medicines''”, by Barbara Hodgson. Buffalo, New York, USA. Firefly Books, 2001, page 104.〕。 とある調査にこうある。「一時的なものであれ、咳や下痢や痛みを和らげる薬がなぜ一般受けするかを理解するには、その時代のでの生活がどのようなものであったかを考えなければならない」1850年代には、「コレラや赤痢が様々な地域で蔓延し、罹患者は下痢による衰弱でしばしば命を落とした」「また、浮腫や結核、マラリアそしてリューマチも一般に見られた」〔“''In the Arms of Morpheus: The Tragic History of Laudanum, Morphine, and Patent Medicines''”, by Barbara Hodgson. Buffalo, New York, USA. Firefly Books, 2001, pages 44-49.〕 19世紀には、アヘンチンキは「痛みを和らげ、安眠でき、苛立ちを鎮め、過剰な分泌を阻止し、神経系統を支え…そして催眠剤としての」特効薬として使われており〔''Licit & Illicit Drugs'', by Edward M. Brecher and the Editors of Consumer Reports. Boston, USA. Little, Brown and Company, 1972. See chapter 1, "Nineteenth-century America-a 'dope fiend's paradise'", pages 3-7.〕、万能薬のような用いられ方をしていた〔。その当時の限られた薬種の中で、そのためアヘンの派生物は、有効で入手しやすい治療方法の一つであった。アヘンチンキは風邪から髄膜炎、そして循環器の病気に至るまで、大人子供を問わず広く処方された〔The Addiction of Mary Todd Lincoln 〕。鎮痛剤、鎮咳剤、止瀉剤として有名だったが、さらに結核、熱病、百日咳、コレラといった伝染病や各種神経症の治療にも用いられた。18、19世紀には、診察料が高額であったため、一般人はなかなか内科医にかかれなかったのである〔。黄熱病の流行時にも用いられた。数多くのヴィクトリア朝の女性たちは、月経困難や正体のわからない痛みにはアヘンチンキを処方された。また看護師は子供たちにアヘンチンキをスプーンで飲ませた。ロマン主義の時代、そしてヴィクトリア朝は、ヨーロッパとアメリカにアヘンチンキが広まった時期でもあった〔。アヘンチンキは当初は労働者階級の薬であり、一瓶のジンやワインよりも安かった。それは法的に薬品としての待遇を受けていて、アルコール飲料としての課税がなされなかったからである。 しかし1968年にイギリスでが成立し、アヘンが規制の対象となった。これにより、薬店の国家登録が定められ、登録された薬屋と正規の医師のみにアヘンの販売権が与えられ、それまでのように、一般の店で販売することが禁止された。また、アヘンをはじめ砒素などの15種類の毒物を規制対象に指定し、販売規定を細かく定めた。こういった毒物を入れる箱や瓶、包装紙などに、商品名と共に毒物(poison)であることと、販売人、販売人の住所氏名を必ず記さねばならなくなった。さらにこの15種類の毒物は第1種と第2種に分けられ、第1種に分類された毒物はさらに厳重に規制された。それは、販売年月日、購入者の住所氏名、販売量、使用目的等を専用帳簿に記録し、さらにその上で、購入者の署名を取ると言ったもので、これに違反すると20ポンド以下の罰金に処せられた〔。 20世紀初頭になって、アヘンの常習性が広く知れ渡るにつれて、アヘンチンキを含むあらゆる種類の麻薬の制限が拡大し、特殊効能のある薬は、その混成物の内容がはっきりしないため集中砲火を浴びた〔“''In the Arms of Morpheus: The Tragic History of Laudanum, Morphine, and Patent Medicines''”, by Barbara Hodgson. Buffalo, New York, USA. Firefly Books, 2001, page 126.〕 。アメリカでは、1906年の純正食品薬事法により、アルコール、コカイン、ヘロイン、モルヒネ、大麻を含む一部の特定の薬品は、内容物と使用料を表示することになった。以前から多くの薬品が、正体不明の中身や誤解を招く表示で、特許医薬品として販売されていたのである。コカイン、ヘロイン、大麻、そしてその他のこの手の薬品は、表示がある限り処方箋なしでも合法的に手に入っていた。表示が義務付けられるようになってからは、アヘンを含む薬品の販売は全売り上げの33パーセントにまで落ち込んだと見積もられている〔Musto, David F. (1999 (3rd edition)). ''The American Disease: Origins of Narcotic Control''. Oxford University Press. ISBN 0-19-512509-6. http://books.google.com/?id=7VrQy2d8PxYC.〕 。1906年にはイギリス、1908年にはカナダで、内容物の公表と麻薬成分の制限を制定する法律が施行された〔。 1914年ににより、アメリカではアヘンチンキを含むアヘン剤、そしてコカの派生物の製造や供給は制限された。その後1916年にフランスでLoi des stupéfiants(麻薬法)が、1920年にイギリスで危険薬物法が制定された〔。しかしアヘンチンキは薬剤師や医師の用命は定期的に受けていた〔''Frank S. Betz Co. 1915 Catalog No. N-15''. Second edition. Hammond, Indiana, USA. Frank S. Betz Co., page 320.〕。 20世紀の半ばに向けて、鎮痛剤としてのアヘン剤の使用は全体的に制限がかかり、アヘンはもはや医学的に万能薬としては受け入れられなくなった。さらに、製薬会社が、や、オキシコドンのような様々なアヘン様合成鎮痛剤を作るようになった。これらの合成麻酔薬は、コカインやモルヒネ共々、アヘンチンキより好ましいとされた。それというのも、混合物としてのアヘンチンキはなく、アヘンのみで様々な種類の痛みに処方され、アヘンのアルカロイドのほぼすべてを含有していたからである。その後、鎮痛剤としてのアヘンは大部分が用いられなくなった。鎮痛剤の主流がモルヒネとなったためで、モルヒネはそれ自体が鎮痛の役割を果たした。アヘンチンキがモルヒネ単体よりも鎮痛効果でまさるという医学的根拠はなくなったのである。 1970年、アメリカはを採用した。これによりをアヘンチンキが規正物質(9630号)と定められて、より多くの制約がかかるようになった。〔DEA Diversion control - Controlled Substance Schedules visited July 31, 2010.〕。 20世紀の末までには、アヘンチンキの使用はもっぱら重症の下痢を治療する目的のみとなった。現在の処方では、アメリカではアヘンチンキの唯一の効能は下痢止めとしてのものであるが、今も時によっては、適応外の(アメリカ食品医薬品局(FDA)による承認が得られていない疾患または病態に対する治療法として、合法的に使用することを示す用語)処方が、痛みや新生児薬物症候離脱群の治療に使われている。 日本においては、約500年前で中国経由でアヘンが伝わったとされるが、中国のようにアヘンを喫煙によって摂取する習慣は伝わらなかったようである。また当時の漢方医学では全く用いられておらず、江戸時代に民間医療書である「普救類方」に、胃の調子がおかしいときに「罌粟殻(けしのから)を水にて煎じて飲む」とあり、ケシが薬用に供されていた。しかし、アヘンを採取していたかどうかははっきりせず、恐らく日本におけるアヘンはオランダ人から持ち込まれたものが、日本人の蘭方医に伝わったとされる〔麻薬アヘン(阿片)の光と陰 〕。シーボルトは眼病の治療のために、ベラドンナエキスや塩酸重土(塩化バリウム)とアヘンチンキを調合しており〔長崎大学薬学部 長崎薬学史の研究〜第一章 近代薬学の到来期(シーボルトの点眼薬) 〕、癌摘出手術の術後治療にも用いている〔長崎大学薬学部編 『出島のくすり』 九州大学出版会、2000年、172頁。〕また、1858年(安政5年)に中国経由で入港中の米軍艦ミシシッピー号、(ペリー艦隊4隻中の1隻)の、コレラに罹患した乗組員がもとでコレラが長崎に大流行し、ポンペと長崎養生所(医学伝習所)がこれを治療した際に、アヘンとキニーネを用いている。 〔長崎大学薬学部 長崎薬学史の研究〜資料1:薬学年表 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アヘンチンキ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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