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アメリカン・アニメーションの黄金時代(アメリカン・アニメーションのおうごんじだい)は、1928年の音声付きカートゥーン映画の登場に始まり、劇場用短編アニメーションがテレビ用アニメーションに緩やかに敗退を始めた1960年代まで続いた、アメリカのアニメーション史における一期間である。ミッキーマウス、ドナルドダック、グーフィー、バッグス・バニー、ダフィー・ダック、ポーキー・ピッグ、ドルーピー・ドッグ、クマのバーニー、ポパイ、ベティ・ブープ、ウッディー・ウッドペッカー、トムとジェリー、近眼のマグーなどの有名キャラクターがこの期間に生み出された。 == 黎明期 == 1927年のトーキー導入は映画産業を震撼させ、アニメーション産業もまた2年後に同様の改革期を迎えた。ウォルト・ディズニーは社運を賭けた博打に打って出て、完全に本編と同調した音声を備えた短編アニメーション『蒸気船ウィリー』(原題:Steamboat Willie)を公開した。この作品はミッキーマウスが登場した3番目の作品である。このカートゥーン映画は記録的な売り上げを達成し、大衆を魅惑し、ディズニーが彼の経歴の中で成し遂げた幾つもの偉業の口火を切ることになった。 1930年代前半を通して、アニメーション業界は二つの派閥に分割されているように見えた。ウォルト・ディズニーと「それ以外」である。ミッキーマウスはその驚異的な人気により、チャーリー・チャップリンと並ぶ世界で最も有名な銀幕のスター達の一人として迎え入れられた。ディズニーの触れる物はすべて黄金に変わるかのように見えた。ディズニー作品に基づく関連商品は、多くの企業を大恐慌による財政的な窮地から救い出した。またディズニーはこの人気に乗じ、アニメーションに更なる改革を加えた。映画における3ストリップ・テクニカラー方式の発達でディズニーの果たした役割は大きく(テクニカラー社はこの方式を完成させるにあたり、ディズニーと提携していた)、総天然色で上映された最初のアニメーション作品は、ディズニーの短編映画『花と木』(1932年、原題:Flowers and Trees)であった。また、ディズニーはライフライク・アニメーションの分野でも他の追随を許さなかった。アニメーション技術の改革者アブ・アイワークスを含むディズニーの制作スタッフたちは、二次元画像で描写されるアニメーションに遠近感を与えるマルチプレーン・カメラを開発し、『風車小屋のシンフォニー』(原題:The old mill)でそれを初めて導入。その結果、アカデミー賞二部門を受賞するという成功を得た。その一方で、大当たりしたディズニーの別作品『三匹の子ぶた』(1933年、原題:Three Little Pigs)では、脚本技術の発展と特徴的なキャラクター描写が強調された。この作品は複数のキャラクターの性格を描き分けた最初のアニメーション作品であると見なされている。 1940年代までにディズニーの前には無数の競争相手が立ちはだかったが、いずれもディズニー・プロダクションをその王座から追いやるには至らなかった。サイレント期のディズニーの最大の競争相手パット・サリヴァン・スタジオは、フィリックス・ザ・キャットをトーキー化しようとする不成功に終わった試みの後に、その最大の没落に直面していた。 アニメーションの品質においてディズニーに最も肉迫した競争相手は、パラマウント映画によりカートゥーン映画を配給していたフライシャー・スタジオの代表者マックス・フライシャーであった。サイレント期を通じてアニメーションの改革と創作を行い続けてきたフライシャー兄弟は、セクシーな『ベティ・ブープ』物とシュールな『ポパイ』物によって大当たりを飛ばした。1930年代のポパイの人気は当時のミッキーマウスのそれに匹敵し、ミッキーのファンクラブを模したポパイ・ファンクラブがアメリカ中で発生した。しかしながら、1930年代初期に最高潮に達した映画内の不道徳描写に対する抗議活動により、映画産業は1934年に映画内の暴力・猥褻描写を一掃するヘイズ規制(Production Code)を採用した。この自主検閲制度はミッキーマウスのようなカートゥーン作品にまで適用され、その行いを改めさせることを強制した。この変化の中でベティ・ブープからセクシーさを奪われたフライシャー兄弟はとりわけ手痛い打撃を受け、この時期のフライシャーの作品からは熱意と創造性の多くが失われてしまったかのように見えた。1930年代後半にディズニーを模そうとする浅はかな試みを行っていたフライシャーは、多数の記憶に残らない作品しか残せなかったが、『ポパイ』シリーズは依然として根強い人気を保っていた。 一方で元ディズニーのアニメーターヒュー・ハーマンとルドルフ・アイジングは、ワーナー・ブラザースの配給するカートゥーン作品を制作する契約を結んだ、新設されたばかりのレオン・シュレジンガー・スタジオに移籍した。ハーマンとアイジングはここで彼ら自身の作品を制作した。これらの作品は単体で見れば成功していたものの、ハーマンとアイジングはディズニーのような革新的な才能を欠いており、彼らの作品の多くは「かわいらしさ」という欠点ゆえに、観客に見た目のインパクトを与えるのに失敗していた。1930年代前半のハーマンとアイジングによるワーナー・ブラザース作品の多くは、今日では忘れ去られている。これらはカートゥーンの改革を志した正統派作品であったが、ディズニーの成功を模するには至らなかった。 しかしながら、1935年にシュレジンガーが新しく雇ったアニメーション監督により、このスタジオは俄然活気を増すこととなった。テックス・エイヴリーである。エイヴリーは荒々しく風変わりな作風のアニメーションをこのスタジオに持ち込み、ワーナーは一躍アニメーション業界の首位に上り詰めた。エイヴリーの影響によりワーナーが新たに生み出したポーキー・ピッグ、ダフィー・ダック、バッグス・バニーその他の無数の人気キャラクターたちの名は、全世界に広まった。 ハーマンとアイジングはワーナー・ブラザースを離れてメトロ・ゴールドウィン・メイヤーカートゥーン・スタジオに移籍し、より好待遇の下で高予算のカートゥーンを制作し始めた。彼らがMGMで制作した無数の豪華なアニメーション作品は、魅惑的なまでに優れたアニメーション場面を特徴としていた。しかし、ハーマンとアイジングの物語描写のスタイルはMGM作品の欠点でもあった。目にも鮮やかな視覚美術の前に、物語そのものはしばしば忘れ去られた。1930年代を通じてMGMスタジオはこの状況に甘んじていたが、その作品はしばしばアカデミー賞の候補となった。 これらの制作会社に加えて、1930年代にはその他の多数のアニメーション制作会社が繁栄していた。ウォルター・ランツと彼の仲間ビル・ノーランはニューヨークでアニメーション制作者としての経歴を積んでていたため、ウォルター・ランツ・スタジオの初期作品がフライシャー作品のような乱暴かつシュールな作風を取っていたのも不思議ではなかった。当時のランツの主要な手持ちのキャラクターは、ウォルト・ディズニーとチャールズ・ミンツから手に入れたオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットであった。1933年の作品『Confidence』では、ウサギのオズワルドは合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトを訪問する。作中でルーズベルトはその席から歩み出て、世界大恐慌を終わらせるための信頼(Confidence)を広めるとオズワルドに約束する。 その一方で、オズワルドの以前の持ち主であるチャールズ・ミンツは、ジョージ・ヘリマンの漫画『クレイジー・カット』(原題:Krazy Kat)のアニメーション化と、ディック・ヒューマーにより1931年に生み出された少年スクラッピーを主人公とするシリーズの制作に携わっていた。ポール・テリーは『イソップス・フェーブル』(原題:Aesop's Film Fables)をヴァン・ビューレン・スタジオに譲り渡した後に、テリートゥーンと名付けた新しい制作会社を起こした。しかしながら初期テリー作品の娯楽としての品質の高さにも関わらず、テリートゥーンはディズニーを筆頭とする主要な競争相手のような成功は収められなかった。ヴァン・ビューレン・スタジオの作品も同様の短所を示していた。 ディズニーの長年の親友であり協力者であったアブ・アイワークスは、ついにディズニー・スタジオを離れるという決断を下し、彼自身の制作会社を1930年に起こした。短期間で終わったアイワークス・スタジオでの活動の間に、アイワークスは3本の主要なシリーズを生み出した。『カエルのフリップ』(原題:Flip the Frog)、『ウィリー・ホッパー』(原題:Willie Whopper)、『コミカラー・カートゥーン』(原題:ComiColor Cartoon)である。アイワーク・スタジオは短命に終わったが、アイワークスの作品はその型破りな作風により、観客や批評家に人気があった。 1937年、ウォルト・ディズニーが史上初の総天然色長編アニメーション映画『白雪姫』(原題:Snow White and the Seven Dwarfs)を公開した。この長編は2年間に及ぶディズニー・スタジオの努力の結晶であった。短編アニメーションによる収入ではスタジオの収益を長く保てないと確信したディズニーは、再び社運を賭けた博打に打って出たのである。『白雪姫』はディズニーを破産に導くだろうと多くの者が予想したが、この評価は間違っていたと証明された。『白雪姫』は全世界で莫大な興行収入を上げ、更には芸術形式としてのアニメーションの発展を示す道標となった。 しかしながら、ディズニーは一巻物よりも長いアニメーション作品の最初の制作者ではなかった。1936年には、フライシャー・スタジオが2巻物の『ポパイ』のテクニカラー短編、『ポパイと船乗りシンドバッド』(1936年、原題:Popeye the Sailor Meets Sindbad the Sailor、上映時間16分)『ポパイのアリババ退治』(1937年、原題:Popeye the Sailor Meets Ali Baba's Forty Thieves、上映時間17分)『ポパイとアラジンの魔法のランプ』(1939年、原題:Aladdin and His Wonderful Lamp、上映時間22分)を公開していた。『白雪姫』の成功の後に、パラマウントはフライシャー兄弟にパラマウント用の長編アニメーション映画を制作するよう依頼した。フライシャー兄弟に高品質な長編アニメーションを制作できるかという点については疑問の余地があったが、とにかくフライシャー兄弟はその依頼を引き受けた。1938年にフライシャー・スタジオはニューヨークからフロリダ州マイアミにその本拠を移し、1939年にアニメーション版『ガリバー旅行記』を公開した。この映画はそこそこの成功を収め、続いて1941年に『バッタ君町へ行く』(原題:Mister Bug Goes to Town)が制作されたが、この作品は興行的に大失敗した。フライシャー兄弟は彼ら自身のスタジオから解雇され、今やその所有権を完全に握ったパラマウントは社名をフェイマス・スタジオに改名し、再び本社をニューヨークに復帰させた。1950年代後半までのアメリカでディズニー以外に唯一長編アニメーションを手掛けた制作者という点で、フライシャー兄弟は特筆に価する。 ディズニーは長編アニメーションの制作に集中することになり、彼個人が以前のような形で短編を監督することはなくなった。ディズニーの短編作品は相変わらず工夫に満ち、面白く、精妙なアニメーションを特徴としていたものの、その脚本は時代遅れで先の読める物になり始めた。この結果、ワーナー・ブラザースのターマイト・テラスに集まった有望なアニメーター達に道が開かれ、新世代のアニメーターたちによるサイドスプリッティングリー・ファニー・カートゥーン(爆笑アニメ)が怒涛のごとくアニメーション業界に押し寄せた。この時期にワーナーのカートゥーン制作者らはその本領を発揮し、1940年代のフリッツ・フレリング、チャック・ジョーンズ、ボブ・クランペットの作品群は伝説となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アメリカン・アニメーションの黄金時代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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