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アメリカ合衆国探検遠征隊(アメリカがっしゅうこくたんけんえんせいたい、)は、1838年から1842年にアメリカ合衆国が敢行した太平洋とその周辺の陸地を探検し測量した遠征隊である。当初隊長に指名されたのはトマス・アップ・ケイツビー・ジョーンズ海軍代将だった。この航海は1836年にアメリカ合衆国議会によって承認された。二人目に隊長に指名されたアメリカ海軍大尉チャールズ・ウィルクスに因み、ウィルクス探検隊と呼ばれることがある。この遠征はアメリカ合衆国の科学、とくにまだ若い分野だった海洋学にとって、非常に重要な成果を生んだ。太平洋のこのような遠征隊に慣れていなかった島人との間に紛争が生じ、数十名の原住民とと共に数人のアメリカ人も殺されることになった。 == 遠征の準備 == 1828年5月、アメリカ合衆国議会はジョン・クインシー・アダムズ大統領に催促された後で、この国が大きな利益を得られるという諒解の元に、世界周航の遠征隊を派遣することを票決した。これは特に太平洋で、交易を促進し、投資額の大きい捕鯨やアザラシ猟に保護を与えることが目指された。議会は民間船を使うべきであることにも合意した。当時政府が所有し、そのような世界周航の旅に使える船は海軍のものだった。このために議会は事実上海軍の遠征を承認していた。1813年に建艦されたスループ・オブ・ウォーの老朽船USS''ピーコック''が1827年に退役させられて壊され、1828年に新たにUSS''ピーコック''として建艦され、探検のための船と考えられた。予見できていなかった障害が多く、予算を承認する法が通過したのは1836年5月18日のことだった。財政的な重しは取れても、更に2年間は隊編成や指揮系統の修正があり、1838年8月9日になって、ノーフォークからハンプトン・ローズまで6隻の奇妙な取り合わせ船隊が動き出した。8月17日、補給船の''シーガル''と''フライングフィッシュ''が加わった後で、ウィルクス大尉が最終命令を出し、8月18日午後3時、船隊は碇を上げた。微風だったので、ヘンリー岬灯台を通過した8月19日9時まで水先案内人を降ろさなかった。11時までにこの小さな艦隊は公海上に出ていた。 当初この遠征隊はジョーンズ海軍代将の下に編成されていたが、その後ジョーンズがその任務を辞した。さらに上級士官数人が辞任するか、あるいは遠征指揮を受けたくない意志を示していた。最終的に隊長はウィルクス大尉となった。課された3つの任務が、戦闘艦でのみ訓練を積んできた士官を怯ませることになった。探検に加えて、新しく発見した場所や既に発見されていた地域を測量することが任務になっていたが、それらについて十分な知識は無かった。さらに全てが文民の科学者部隊がおり、指揮官の責任に付け加えられた。当時測量の経験があるアメリカ海軍の士官は少なく、科学者と共に仕事をした者はいなかった。測量士の大半が雇用され、その業務を習ったアメリカ合衆国沿岸測量部は文民組織だった。実際に測量の訓練を受けていたウィルクスは科学者の過剰な数を9人にまで下げさせた。ただし、自分と他の海軍士官のために測量と地図製作を結びつける作業すべてなど、科学的な任務を引き受けていた。 科学者部隊には、博物学者、植物学者、鉱物学者、剥製師、文献学者が含まれた。船舶はスループ・オブ・ウォーのUSS''ビンセンズ''(1828年建造、780トン)、同じくスループ・オブ・ウォーのUSS''ピーコック''(1828年建造、650トン)、ブリッグのUSS''パーポイズ''(1836年建造、230トン)、全艤装シップのUSS''レリーフ''(物資運搬船)、補給線として機能するスクーナーのUSS''シーガル''(1838年建造、110トン)とUSS''フライングフィッシュ''(1838年建造、96トン)という陣容だった。 これと同時に、東インド戦隊の旗艦USS''コロンビア''に乗艦するジョージ・C・リード代将が、フリゲート艦USS''ジョン・アダムズ''と共に世界周航の過程にあり、回り道にはならない第二次スマトラ懲罰遠征のために泊まっていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アメリカ合衆国探検遠征隊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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