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アメリカ合衆国民主党の歴史 : ウィキペディア日本語版
アメリカ合衆国民主党の歴史[あめりかがっしゅうこくみんしゅとうのれきし]

アメリカ合衆国民主党の歴史では、アメリカ合衆国民主党の歴史について述べる。民主党は、合衆国における現存最古の政党であり、また草の根運動による政党としても世界最古とされる〔. "The Democratic Party of the United States, the oldest existing in the world...."〕〔 "The country possesses the world's oldest written constitution (1787); the Democratic Party has a good claim to being the world's oldest political party."〕。
民主党は民主共和党の派閥を前身として1830年代に形を成し、1832年から1850年代中盤までの第二政党制時代には、対立するホイッグ党をほぼ常に僅差で制し、アメリカ政治を主導した。農民、都市労働者、新移民を支持基盤とし、主要政策としては、マニフェスト・デスティニーを掲げて西部開拓を主張し、全ての白人間の平等を唱え、連邦銀行の設置に反対した。この時期の主要な指導者として、アンドリュー・ジャクソンマーティン・ヴァン・ビューレンジェームズ・K・ポークの歴代大統領や、スティーブン・ダグラス上院議員等がいる。
奴隷制をめぐる対立が激化し、反奴隷制を掲げて共和党が結党された後、1860年から1932年にかけては共和党優位の時代となった。特に南北戦争前後の民主党は弱体化し、一時期は南部の地域政党の様相を呈した。その後、東部の企業の権益を代表する「」が党内の主導権を握り、1884年1892年には民主党からグローバー・クリーブランドが大統領となるが、不況の煽りもあって、再び共和党が優勢となった。民主党内ではブルボン民主党と、南部西部の貧しい小作農家を中心とする支持者層との間で分裂が続いた。小作農民たちは銀貨鋳造自由化、すなわちインフレを掲げて勢力を増し、1896年には党を掌握して、1896年1900年1908年の大統領選挙でウィリアム・ジェニングス・ブライアンを候補として指名したが、すべて敗北した。1900年から1920年の進歩主義時代には、民主党でもブライアンやウッドロウ・ウィルソンが主導して進歩主義運動が盛んとなった。共和党内の分裂にも助けられて、1912年1916年の大統領選挙ではウィルソンが当選した。結局、南北戦争から世界恐慌までの約70年間に民主党から選出された大統領はクリーブランドとウィルソンのただ2人だけだった(他にリンカーンの副大統領から昇格したアンドリュー・ジョンソンも民主党)。同時期の議会では、大統領選に比べると共和党と競ることが多く、36回の議会選挙のうち、下院では15回で多数派を形成した(または、等、少なくとも進歩党院内会派を形成して多数派を構成した)。ただし、上院で多数派を形成したのは5回に過ぎなかった。
1929年の世界恐慌により状況は激変し、1932年フランクリン・D・ルーズベルトの大統領就任によって、アメリカ政治は第五政党制と呼ばれる時代に入り、経済規制に政策を転換した民主党が優位となった。民主党はリベラル勢力によるニューディール連合を形成し、この時代に民主党がホワイトハウスを明け渡したのは、第二次世界大戦の英雄として絶大な人気のあったドワイト・D・アイゼンハワー1952年1956年)に敗れたときだけだった。ルーズベルト以降のこの時期の主要な政治指導者として、ハリー・トルーマンジョン・F・ケネディリンドン・B・ジョンソンの各大統領があげられ、いずれも国内政策では経済規制や社会保障、公民権運動に重きを置き、一定の成果をあげたが、主に公民権運動推進が引き金となって、旧来の地盤であった南部保守層やカトリック層は民主党から離れていった。
1960年代半ば以降は、公民権運動の高まりやベトナム戦争の泥沼化を受けて民主党内は混乱し、共和党優位の時代に移った。議会では1994年まで民主党が下院をほとんど支配し、上院もたびたび掌握したが、大統領選挙では、ウォーターゲート事件の影響で1976年にジミー・カーターが当選した以外は、共和党政権が続き、特に1980年代はレーガン人気に苦しめられ、中道化への道を模索することになった。
1990年代に入ると、民主党と共和党の勢力は議会でも大統領選でも拮抗し、今日に至っている。この間、民主党からはビル・クリントン1992年1996年)とバラク・オバマ2008年2012年)が大統領に選出された。
==成立から南北戦争前夜まで==
現在の民主党は、1830年代、民主共和党の派閥を前身として成立した。
1812年から14年の米英戦争終結後、アメリカ政治は、ナショナリズムの高まりとともに政党対立のほとんどない「好感情の時代」に入った。親英的な連邦党は1820年頃までに事実上消滅し、民主共和党一党体制となったが、その民主共和党も次第に内部分裂に陥る。1824年の大統領選挙では、元連邦党員のジョン・クィンシー・アダムズや米英戦争の英雄アンドリュー・ジャクソン等、民主共和党から4人が立候補したものの、いずれも過半数を獲得できず、下院での選挙に持ち込まれた。選挙人選挙での得票が最も少なかったヘンリー・クレイがアダムズ支持にまわり、その結果、一般選挙および選挙人選挙で最も多く票を獲得していたジャクソンではなく、アダムズが第6代大統領に選出された。選挙後、アダムズ支持者はアダムズ派(または反ジャクソン派)を形成し、派閥対立は深刻化したが、明確な党名を掲げるのではなく、領袖を核にゆるく組織された派閥が乱立する状況が続いた。アダムズやクレイ等が工業化や公共事業を主張したのに対し、ジャクソン派はこういった近代化に反対していた。
1828年の大統領選挙では、アダムズとジャクソンが再び相まみえた。この時の選挙では、ジャクソンは副大統領ジョン・カルフーンと連携し、またマーティン・ヴァン・ビューレンの主導で積極的に各州に強い政治組織を形成して圧勝した〔Robert V. Remini, ''Martin Van Buren and the Making of the Democratic Party'' (1959)〕。アダムズ派は敗北後、求心力を失ったが、ジャクソンに反対する勢力はクレイを中心に党派を形成し、1830年から国民共和党と名乗るようになった。一方、ジャクソン派も同年より「民主党」を名称とするようになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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